「聞かない人、語れない人」
ヨハネによる福音書7章45-52節
本日の箇所には、イエス様に対して、祭司長たちやファリサイ派の人たちが厳しい批判をしている様子が記されています。彼らに対して、下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」(7:46)と言いました。また、ニコデモも「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(7:50-51)と主張しました。しかし、彼らはその言葉に耳を傾けようとしませんでした。本日の箇所を読みながら、ここには「聞かない人」と「語れない人」がいるのではないかと思います。「聞かない人」として思うのは、祭司長たちやファリサイ派の人たちのことです。彼らは、下役たちの言葉にも、ニコデモの言葉にも耳を傾けようとしませんでした。頭ごなしにイエス様を悪人と決めつけ、そんな自分の思いを改めることもないまま、イエス様に対しての怒り、憎しみを募らせていたのです。また、本日の箇所には「語れない人」もいたのだと思います。ニコデモがそうだったのではないでしょうか。ニコデモは一度、イエス様に会っていました(ヨハネ3章)。この時、ニコデモはイエス様を受け入れることができませんでしたが、ニコデモはイエス様に何かを感じ取っていたのだと思います。そんなニコデモには、彼だからこそ語れることがあったのではないかと思うのです。
そのように本日の箇所には、「聞かない人」「語れない人」がいました。そして、そんな人々の姿を見る時、時々の私たち自身の姿に重なって来るのではないかと思います。私たちも時に「聞かない人」「語れない人」となってしまうことがないでしょうか。時に、周りの人の声に耳を傾けようとせず、自分の中の問題や過ちに気づかないままでいることはないだろうかと思います。また、周りの状況に「それはおかしい」と思ったりするのですが、声を挙げられないということがないだろうかと思います。
本日の箇所を読みながら、考えさせられるのは、そういう彼らがどんどん、イエス様を十字架につけてしまう方向に向かっていったということです。イエス様が十字架につけられていった背景には、本日の箇所に記されている「聞かない人」、「語れない人」がいたのです。
私たち人間にとって、最大の過ち、愚かな歩み、それが神の独り子であられるイエス・キリストを十字架につけるということでした。私たちを愛し、私たちを救いに導くため、イエス様が私たちのもとに来てくださったにも関わらず、私たち人間はそのイエス様を十字架へとつけていってしまったのです。そんな取り返しのつかない愚かな過ちはありませんでした。しかし、どうでしょう。そんなふうに愚かな過ちに向かっているのは、この時だけでしょうか。そうじゃないんじゃないかと思います。私たちは十字架の出来事以外にも愚かな過ちを繰り返してしまっています。そして、そんな過ちを犯している私たちはしばしば、本日の箇所の祭司長たちやファリサイ派の人たちのように「聞かない人」になっている…。あるいはニコデモのように「語れない人」になっているということがあるのではないかと思うのです。