「十字架の場所」
ヨハネによる福音書8章1-12節
ある時、イエス様が神殿で人々に神様のことを教えておられたところ、律法学者たち、ファリサイ派の人たちがやって来ました。彼らは姦通の現場で捕らえられた女性を連れてきました。そして、イエス様に向かって「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:4-5)と訴えたのです。彼らは、表向きはイエス様に「教えを乞いたい」というような態度で接していましたが、彼らの本音は全く違っていました。イエス様が何と答えるかによって、イエス様を人々の前で陥れようと考えていたのです。
イエス様は最初、彼らの訴えに対して、沈黙し、身を屈めていました。しかし、やがて口を開き、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(8:7)と言われたのでした。このイエス様の言葉の意味について考えさせられます。私は本日の箇所を読む時、それが十字架でイエス様が裁判の席につけられる場面が重なってきます。本日の箇所では姦通の現場で捕らえられた女性が人々の前で連れ出されています。十字架の場面でもイエス様が人々の前に連れ出されているのです。そして、本日の箇所では「こういう女は石打ちの刑に処せられるべきだ」ということが訴えられるのです。人々はそのことの「そうだ、そうだ」と息巻くのです。十字架の場面でも、イエス様に対して、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ様子が記されています。そのように本日の箇所と、十字架の出来事は色々な意味で重なってくるのです。そのような意味で、本日の箇所は「十字架の場所」ということができるのではないでしょうか。では、十字架の場所とはどういう場所でしょう。そのことを考える時、決定的なことが「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」というメッセージでした。それまで、人々は姦通の現場で捕らえられた女性の罪を裁いていました。「この女性はとんでもない。赦せない」と息巻いていたのです。ですが、イエス様のひと言で状況が一変します。ここで問われていることが「彼女の罪」ではなく、そこにいた一人一人「その人自身の罪」となっていったのです。それまで裁く側だった人々は、そのイエス様のひと言によって、裁かれる側となっていきました。それが本日の箇所で起こった出来事でした。それというのは、十字架で起こった出来事も同じでした。人々はイエス様の罪を裁いていました。「イエスが神の子と偽証した。そんなの赦せない」。人々はそのように息巻いて、イエスを十字架につけろと叫んだのです。しかし、彼らはやがて気づくのです。あの十字架の場所で問われていたのは「イエスの罪ではなく、私の罪なんだ」ということに気づかされていったのです。このヨハネ8:1-12の記述は、私たちに「十字架とは何か」を問いかけています。十字架の前に立たされる時、私たちは誰一人、傍観者になることはできないのです。本日の箇所で人々は目の前の人に対して「赦せない」と考え、裁いていました。しかし、そんな彼らが自分の罪と向き合わされていきました。私たちも同じように十字架の場所に立たされる時、私たち自身の罪が問われていくのです。