「光の記憶」
ヨハネによる福音書8章12-20節
「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」(8:12)
この8:12の御言葉は先週も読みました。先週は8:1からの繋がりで8:12をお読みしました。今週は8:12から始まって、8:20までをお読みしました。実はこのことには意味があります。この8:12の御言葉は、8:1の御言葉の繋がりと、8:12-20までの繋がりで、それぞれ読むことができるのです。そして、そのように8:1-12、8:12-20の読み方で、それぞれ全く違う印象で読んでいくことができるのです。8:1からは姦通の現場で捕らえられた女性の記述が記されています。ある時、イエス様のもとに、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来ました。そして、イエス様に対して、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」(8:4-5)と問うたのです。この女性は、自分が殺されてしまうかも知れないという恐ろしさで心が一杯でした。そのような状況の中で、イエス様は人々に対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(8:7)と言いました。それを聞いた人々は、自分には石を投げることはできないと観念し、その場を立ち去っていきました。すると、イエス様はこの女性に対して、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(8:11)とお話になり、彼女を救ってくださったのです。死を覚悟しなければならないような状況から救われる…。まさに彼女にしてみれば、イエス様との出会い、取り扱いは、命の光を与えられたような出来事だったのではないでしょうか。そんな中、8:12の御言葉には、心からアーメンと言えたのではないかと思います。
これに対して、8:12の御言葉か20節までを読んでいく時、どうなるでしょうか。8:13にはファリサイ派の人々がイエス様の言葉に対して「その証しは真実ではない」と語った様子が記されています。それ以降も、イエス様のメッセージに対して、反発ばかりしました。8:1-12の姦淫の女とは対照的です。何で、このように違っているのでしょうか。姦通の現場で捕らえられた彼女は、これまでたくさん暗闇のような経験を通らされてきたんじゃないかと思います。だからこそ、イエス様の光を知ることができたのではないでしょうか。これに対して、ファリサイ派の人々のことについても思うのです。おそらく、この人たちは、イエス様以外のものに心奪われ、イエス・キリストの光が見えなくなってしまったのだと思います。
そんな人々の姿を見ながら、私たちはどうだろうかと思います。私は自分のことを思う時に、8:1-12の姦通の現場の捕らえられた女性の姿、8:12-20のファリサイ派の人々の姿、それぞれの姿が時々の自分自身のように思えます。慌ただしい日々を過ごしながら、周りのことばかりに心奪われて、肝心な光が見えなくなっている自分がいたり、その都度、大変な思いにさせられながら、イエス様の取り扱い、光に生かされてきたことを思うのです。