「世に属する者」

ヨハネによる福音書8章21-30節

「メメントモリ」という言葉があります。ラテン語で「死を想え」「死を忘れるな」を意味します。私たちに対して、「あなた自身、いつかは必ず死ぬ時が来ることを忘れるな」ということを呼びかけています。この言葉は、古くから使われていました。古代ローマでは「私たちはどうせ死ぬんだから、今を楽しめ」という意味で使われることが多かったようです。古代都市のポンペイの遺跡には、骸骨が人生を謳歌している様子が描かれているモザイク画があります。一見、異様に見えますが、人生を好きに食べて、飲んで過ごしている人が、やがて骸骨になって死んでいく様子を表しています。しかし、その意味あいが全く違う形で使われるようになっていきます。それは、キリスト教が広まっていったことによってでした。メメントモリという言葉は中世の修道院に掲げられることになっていきます。その意味は、「あなたの地上での人生というのは、やがて終わりを迎える時が来る。その時に、主に遭いまみえることになる。そのことを心に覚えながら、限りあるこの世の生に執着することなく生きなさい」というものでした。この違いは何でしょう。何より「前提となる視点」が違うからなのだと思います。一方は「この地上での生涯が全てだと考えている視点」なのだと思います。ですから「今を楽しめ」となるのです。これに対し、もう一方は「この地上の生涯が全てではなく、その先を見据えて、今を生きよ」と呼びかけているのです。そのように、前提となる視点が違ってくると、今を生きる人生の考えや価値観そのものが違ってくるんだということを「メメントモリ」にまつわる歴史は物語っているのだと思います。
本日の箇所には、イエス様とユダヤ人たちとのやり取りが記されています。イエス様とユダヤ人たちとのやり取りを読んでいく時に「かみ合っていないな」と思ってしまいます。その理由は何でしょう。何より、イエス様とユダヤ人たちとで視点が違っていることにあるのではないかと思います。本日の箇所で、イエス様はユダヤ人たちに対し、「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」(8:23)と言われました。ユダヤ人たちがイエス様の言っていることを受け止めることができない根っこにはこの違いがありました。
本日のユダヤ人たちのことを思いながら、私たちはどうだろうかと思いました。突き詰めて言うなら、私たちは「この世に属する者」なのではないでしょうか。どこまで行っても、この世のことしか見えていませんし、そこでしか物事を考えられないのではないかと思います。ですが、それでもイエス様は、私たちを「それだけではない眼差し」に生きるように招いておられます。分からないなりに、「それだけではないものを見つめる眼差し」をもって生きるようにと招かれているのです。そして、そのような眼差しを持つために「信じる」ことが必要です。イエス様を信じ、イエス様が語られる御言葉を信じることが必要なのです。私たちには分からないことに関して、御言葉を信じるということで受け止めていく時、私たちはこの世の事柄を越えた天の事柄についての眼差しをもって生きることができるのです。

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