本日のローズンゲンの御言葉です。

「大杯でぶどう酒を飲み/最高の香油を身に注ぐ。しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。」アモス6:6

「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、」エフェソ5:18

わたしが大学を卒業し、会社員となり、福島に赴任し、郡山の教会に通い始めたばかりのことです。Aさんという人がいました。Aさんはもともと他宗教の信者で、そこで深く傷ついた経験をしていました。お母さんが熱心な信者で、お母さんは大変、尊敬されていたのですが、Aさんはお母さんのようにできなかったため、「ダメな息子」というレッテルを貼られてしまっていたのです。Aさんはそのことに深く築き、悩んでいたところ、当時の郡山の教会の牧師に出会い、郡山の教会に通うようになっていきました。それまでの経験は深い傷となっていました。その影響で、Aさんはお酒ばかりを飲んでいました。前の場所で「お酒はダメ」と言われ続けたことへの反発だったのだと思います。そんなAさんは日曜日の礼拝にも、お酒を飲んで酔っ払った状態でやって来ることもありました。周りの人たちはAさんの様子に心配しながら、「お酒を少し控えたほうがいいんじゃない?」と声をかけたりしていました。しかし、そんなことを言われると、Aさんは激高し、「お前たちは律法学者か」と怒鳴っていました。そんなふうに怒りだすと手が付けられないので、周りの人たちはすっかり困ってしまっていました。ただ、周りの人たちは、それでも忍耐強く関わり続けていました。そんな中、Aさんが少しずつ変わっていきました。教会員の人たちとの信頼関係が築かれていく中で、Aさんなりに周りの人たちが「お酒を控えたほうがいい」と言っているのは、「こうしなければならない」と命令しているのでも、裁いているのでもないということを理解していったのだと思います。何より、周りの人たちは自分のことを思って、心配してそんなふうに言ってくれているんだということを理解していった様子でした。結果、教会にお酒を飲んでくるようなことは無くなりましたし、教会の中で周りの人たちに怒鳴り散らすようなことも無くなりました。その様子に、Aさんは単にお酒を飲まなくなっただけでなく、色々な思いから解放されていったのだろうなと思いました。そして、自分が「イエス様から愛されている」ということ、「周りの人たちから大切に思われている」ということが、そんなふうにAさんを変えていったのだと思います。

本日の箇所には、次のように記されています。

「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、」

この言葉を読みながら、ふとAさんのことを思い起こしました。本日の箇所の「身を持ち崩す」という箇所は、「放蕩」を表すギリシアが使われています。自分を見失い、放蕩に向かっていくイメージが、「身を持ち崩す」ことのイメージなのではないかと思います。そんな中、ここで言われていることは、単に、お酒を飲む、飲まない、云々のことではないのだと思います。それより、大事なこととして、私たち一人一人が、主に繋がり、主の愛に満たされ、自分自身を取り戻していくことが呼びかけられているんだろうなということを思わされました。                

     鈴木牧人

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