「アブラハムの子」
ヨハネによる福音書8章39-47節
本日の箇所には、イエス様とユダヤ人たちとのやり取りが記されています。このやり取りを読むにあたって、まずお読みしたいのが、ヨハネ8:31-32です。ここでイエス様は、人々を「イエス様を信じることを通して与えられる自由」へと招かれています。またこの時、このイエス様のお話を聞いていた人たちは「御自分を信じたユダヤ人たち」だったということが8:31に記されています。それが本日のやり取りの前提となっているやり取りでした。ですが、本日の箇所は、そういう対話の延長線上にあるとは思えません。人々はイエス様のおっしゃることを受け入れようとしないのです。そして、イエス様と人々との間にはどんどん溝が生じてしまうのです。何で、こんなふうになってしまったのでしょう。何より、人々はイエス様のおっしゃっていることが分からなかったのだろうなと思います。人々はイエス様から「わたしの言葉にとどまるなら、真理を知り、自由になるんだ」と言われて、「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」(8:33)と答えました。また、人々が「わたしたちはアブラハムの子孫です」と主張したことを否定すると、ますますイエス様に反発するのです。そのように、イエス様がお話になられた「自由」ということに関しても、「アブラハムの子であるとはどういうことなのか」ということに関しても、人々は理解できませんでした。彼らにしてみれば、イエス様がお話になっていることは、彼らがこれまで考えてきたこと、思ってきたことと、大きく違っていたのだと思います。しかも、イエス様の言葉は、彼らにとって、自分たちが大切にしてきたプライドを大きく傷つけられることでもありました。ですから、彼らはますまずイエス様に心を頑なにさせていくのです。そんな彼らの姿を見ながら、私たちもそういうことあるんじゃないかなと思います。私自身もそういうふうになってしまうことがあるなと思うのです。それまで自分が「こうだ」と考えてきたことを「違う」と言われたら、中々それをすぐに受け止めることはできないなと思うのです。受け止めることに時間がかかったりすることもあると思いますし、自分の心が頑なになってしまうと、もう相手の言葉に耳を傾けられなくなってしまうこともあるのだと思います。そんな自分を思いながら、私自身もこのユダヤ人と同じようになってしまうことがあるかも知れないと思います。ですが、それでも「耳を傾けなければならない言葉」があるのだと思います。最初はショックを受けたり、戸惑ったり、傷ついたりするかも知れません。しかし、「耳を傾けなければならない言葉」があるのです。時間をかけて、よくよく考えてみる時に、「あの言葉が自分に大切なことを気づかせてくれた」と知らされたりすることがあるのです。何より、聖書の言葉、イエス様の言葉は、そういう言葉です。聖書の言葉を読んで心にスーッと入ってきて、慰められたり、励まされたりすることもあるのだと思います。しかし、そればかりではなく、違和感を感じたり、中々心に入ってこないこともあるのだと思います。ですが、それでも、その言葉に耳を傾ける時、その言葉が結果、私たちを真理に導き、私たちを砕き、解放し、本当の意味で自由にしてくれることがあるのです。