本日のローズンゲンの御言葉です。
むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。イザヤ59:2
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ローマ6:23
原発事故後、宣研ニュースレターに文章に書きました。
「ある方が、原発の安全への信頼度は、ほとんど『偶像信仰』のような域だとおっしゃっていた。今回の事故を受けて、周辺に住んでいた人たちや自治体の方々は皆、口をそろえて、『原発は安全だと聞かされてきた』と話している。加えて、原発の安全を管理している保安院や東電関係者までもが『これまで自分たちは、原発が安全だと信じてきた』と発言している。原発に関して、きちんとした情報も、確かな根拠もないのに、安全という言葉だけが、繰り返し、語られ続けてきた。多くの人々はその言葉を信じるしかなかったし、信じきってきた。それは、まさに現代の偶像信仰の有様である。そして、その有様をみる時、創世記3章に記されている蛇とエバのやり取りが重なってくるように思えてならない。創世記3章は人類が最初に犯した罪の物語が記されている。神は人をエデンの園に住まわせ、そこに一つの戒めを与えた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』(創世記2:16-17)。こうして、人は、エデンの園の中央にある善悪の知識の木から取って食べることを禁じられた。しかし、人はその木の実を取って食べてしまう。それは人が蛇に誘惑されたからだった。蛇はエバを巧みな言葉で誘惑する。その中で語ったのが、善悪の木の実を取って食べても『決して死ぬことはない』(3:4)ということだった。エバは根拠もない蛇の言葉をそのまま鵜呑みにしてしまう。そして、『これを食べても安全だ』と信じ込んでしまった時、目の前の果実は『いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた』(3:6)。そうなってしまったエバを止めることはできなかった。エバは手を出してはならなかったはずの禁断の実に手を出してしまった。原発は安全。絶対に大丈夫。この言葉ばかりが一人歩きをしていく中で、多くの人々が原発を容認し、推進していった。その姿というのは、誘惑の言葉に惑わされるエバの姿そのままではないだろうか。結果、善悪の知識の木の実を食べたアダムとエバは取り返しのつかない状況になってしまった。しかも、彼らだけの問題だけではなく、神は『お前のゆえに、土は呪われるものとなった』(3:17)と宣告した。この言葉が、今、私たちに突きつけられる。最初の人が犯した過ちそのままに、私たちが突き進んだ歩みによって、土地は汚れてしまった。祝福されていたはずの美しい自然がことごとく汚れてしまった。原発問題には、様々な形での『人間の罪の縮図』があるように思う。今回の原発事故の周辺で起こっていることは、私たちの罪が結ぶ実として起こっていることなのかも知れない。しかし、人の罪の傍らには、いつでも主の十字架が立っている。私は、事故で吹き飛んだ鉄骨がむき出しになってしまっている原発建屋が、主の十字架に重なって見えることがある。十字架とは、私たちにとって見たくないものが見せられる場所である。しかし、私たちはそれと向き合う時、そこには救いの道があるのである。今尚、原発事故の只中で、格闘している人がいる。その方々のことを思う時、その只中に主の十字架の御苦しみがあることを痛感する。同時に、私たちがその方々の痛みに寄り添い、伴っていく時、そこに神の国の福音のメッセージが聞こえてくるのではないだろうか。主は、そこに居まし、私たちと共なり、私たちに復活の希望に至る救いの道を拓いてくださるのである。」
現在、この世界が再び原子力に取り込まれてしないだろうかと危惧する状況があります。この時代にあって、本当に大切なことを見極め、命の道を選び取ることができるように祈ります。
鈴木牧人