「わたしもその中にいる」

マタイによる福音書18章19-20節

東日本大震災の経験や原発事故の経験を思い返す時、何より思うことがあります。それは一緒に悩み、一緒に考え、祈ってくれた方々がいたということです。その方々がいてくださったから、私たちは歩んでくることができたんだと思うのです。その真ん中には何よりイエス様がいてくださいました。マタイ18:19-20には「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」とあります。震災や原発事故で何より経験したことの一つは、この御言葉の真実です。私たちの周りには色々なことがあります。課題があります。悩ましいこともありますし、心痛めることがあります。そんな中、私たちはそれらの課題に対して余りに無力に思えてしまうことがあるかも知れません。何から始めていけばいいのか分からないこともあるかも知れません。一生懸命色々なことに取り組もうとしても自分がしていることが無駄に思えてしまうようなこともあるかも知れません。そんな私たちに呼びかけられているのが、この御言葉なのだと思います。
マタイ18:19-20を読みますと、この記述の前になるマタイ18:15からは「兄弟への忠告」の記述が記されています。罪を犯した兄弟に対して「それは違うよ」と忠告しに行った人たちの話です。ただ、この罪を犯した兄弟は、忠告を受けても、それを中々聞き入れようとしませんでした。最初、一人でその兄弟と話をするのですが、それに対して耳を傾けません。二人、三人で話にいっても聞こうとしないのです。懸命に色々な形で関わりをもつのですが、結局、この兄弟は教会から離れていってしまいます。関わった人たちにしてみれば、本当にショックな出来事だったのではないかと思います。そんな中、語られているのが、マタイ18:19-20の御言葉です。ここで「二人または三人がわたしの名によって集まる」と言われていますが、この二人、三人とは、どういう人たちなのでしょう。これまで、散々、この兄弟に関わり、苦労し、結局、無駄で「自分たちは何やっているんだろう」と心痛めている人たちなのではないでしょうか。そんな二人、三人が思いを一つにし、イエス様を見上げようとしていくのです。自分たちは無力かも知れませんが、その思いをそのままイエス様に打ち明けるようにイエス様に願い求めていくのです。「そこに私は必ずいるよ」と励ましてくれているのが、本日のイエス様の言葉なのだと思います。
震災や原発事故のただ中で、自分一人では、どうにもならないようなことばかりの中、一緒に悩んでくれる人がいました。同じように痛んでくれる人がいました。そして、一緒にイエス様を見上げ、祈ってくれる人がいました。そのただ中に、イエス様が生きて働いてくださっていることを見せられてきました。そんな経験をさせられながら、まさに本日の御言葉、マタイ18:19-20が「本当だ」と思いますし、教会というのは、こういうところなんだと思うのです。

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