本日のローズンゲンの御言葉です。
「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに/わたしをここに住まわせてくださるのです。」詩編4:9
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ヨハネ14:27
昨日、東日本大震災を覚える礼拝でした。その礼拝の中で、ミャンマーのカチン族の方々が特別讃美をしてくださいました。前の日に姪浜教会でカチンの方々の礼拝を行ない、そのまま、翌日の礼拝に参加してくださったのです。東京からわざわざカチン族の牧師先生が来てくださり、礼拝を献げてくださり、その礼拝の中で主の晩餐も行なってくださったと聞きました。その牧師先生は「帰りは高速バスで東京まで帰る」とおっしゃっていましたが、「また、姪浜に来て、今回のように礼拝や主の晩餐を献げたいのですが、可能ですか。できれば二か月に一度のペースでできたらと考えています」と言われました。そのお話を聞き、神様の取り扱いを感じました。実は、私たちが現在行っているアトゥトゥミャンマーの方々への関わりは、もともとこのような経緯がありました。M牧師は、私たちの教会の礼拝に出席するようになり、ある時、M牧師の紹介で、ミャンマーの方々の礼拝が姪浜駅の近くの公民館で行なわれているとの話を聞きました。その礼拝に参加させていただいたところ、このような相談を受けました。
「九州にはミャンマー人たちのコミュニティがあり、仏教徒のコミュニティのためには集会ができている。しかしながら、クリスチャンのための礼拝が中々できていない。今回、この公民館で礼拝を行なったが、次回以降、教会で行なうことは可能だろうか。」
そのような話を受けて、執事会の中で話し合い、姪浜教会の活動に支障がない範囲なら、教会を使用していただこうということになりました。ですが、色々なスケジュールの調整がうまくいかず、結局、その話は頓挫してしまっていました。それでも何度か、ビルマ語の礼拝を行なったりしていたのですが、それでも中々定期的に行なうことはできませんでした。そんな中、今回、このような形でのお話が出て、牧師先生自ら、そのようなミッションを与えられておられる様子に、不思議な神様の取り扱いを感じました。もちろん、これから色々な調整をしなければなりませんが、願わくば、実現できる方向に向かうことができたらと願っています。そして、現在、本当に大変な状況の中にあるミャンマーの方々が、このような礼拝を通して、少しでも心に平安と慰めが与えられたらと願っています。本日の箇所には、次のように記されています。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
本日の箇所を読みながら、昨日のカチン族の方々の特別讃美を思い起こしました。様々な困難の中にあって、主への心からの讃美を献げておられるカチン族の方々の姿を見ながら、本日の箇所にあるイエス・キリストが私たちに与えてくださる平和を思いました。私たちの歩みには心騒がせることが色々あります。そんな中、私たちにこの世が与える平和とは全く異なる平和をイエス様は与えてくださるのです。その平和に共に生かされていきたいと思います。
鈴木牧人