本日のローズンゲンの御言葉です。

「平穏なときには、申しました/『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。」詩編30:7,8

「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」ヨハネ16:22

モルトマンという神学者がいます。この人が「不安にはよく似たところの姉妹がいる」ということを語りました。それは「希望」です。何故、「不安」と「希望」が似ているかと言いますと、不安も、希望も、私たちを将来のことがらに目を向けさせていくからです。私たちは「不安」を通して、将来に対して、危機感を覚え、身構えさせていきます。一方、「希望」を通して、私たちは将来に対して、力を得ることができます。そのように「不安」と「希望」は、両方とも、将来のことがらに対して、目を向けさせていくのです。それゆえ、「希望」を見ようとしていく人は、その傍らにいる姉妹の「不安」をも見せられていきます。その二つのことは切り離せないし、本当の「希望」を見ようとしている人は、様々な「不安」をも知っている人なのです。ただ、その一方で思います。「不安」と「希望」というのは、似ているとは言っても、あまりに印象の違うものなのではないでしょうか。まるで、コインの「裏」と「表」のような対照的なものと言えるのだと思います。そんな中、そのコインを「裏」から「表」にひっくり返していくものが、「信仰」なのではないかと思います。色々なことを思う時、「不安」というコインの「裏」しか、見えないように思えてしまう…。そういう状況の中、御言葉の約束に信頼し、主に期待する信仰を通して、そのコインを「裏」から「表」にひっくり返していく…。そのようにして、「希望」を見出していくのが、信仰なのだと思うのです。

本日の箇所には、次のように記されています。

「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

この御言葉は、イエス様が弟子たちに対して、後に起こる十字架の出来事を踏まえて、語りかけている箇所です。イエス様がお話になるメッセージを弟子たちは十分に理解することはできませんでしたが、これから間もなく、不安な出来事が起こることは感じ取っていました。そんな中、弟子たちは恐れと悲しみの中にありました。しかし、その中で、イエス様は、たとえ、一時、悲しみに暮れることがあったとしても、後に喜びを味わうことができるんだということを約束されたのです。まさにここでイエス様は「不安」のただ中にある「希望」を指し示しておられるのだと思います。

私たちの歩みは、このような歩みなのだと思います。決して、楽観視できるようなことばかりがある状況ではありません。むしろ、色々なことを考えると、不安や恐れ、悲しみに暮れてしまいそうになることがあるかも知れません。しかしながら、そんな状況をイエス様はよくよく分かってくださいつつも、私たちに呼びかけてくださっているのです。必ずや、あなたに「喜び」が与えられ、その「喜び」を奪い取る者はいない…。この御言葉の約束に信頼し、イエス・キリストに希望をおいて歩む歩みが、私たちの信仰の歩みなのです。   

                             鈴木牧人

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