本日のローズンゲンの御言葉です。
これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。創世記6:9
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。Ⅰペトロ1:15
本日の箇所には、次のように記されています。
「これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」
本日の箇所は、大変有名な『ノアの箱舟』の冒頭の記述です。その最初にノアの紹介として、ノアについて、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」と聖書は書いています。この「無垢な人」という部分を、岩波の聖書では「義しく、非の打ちどころがなかった」と訳しています。このような記述を読みます時に、イメージするのは、完全無欠な義人の姿かも知れません。しかし、聖書には、ノアも失敗を犯した一面が記されており(創世記9:20-27)、ノアも弱さを抱えた一人の人だったんだなと思うのです。そんな中、ノアを「義しく」させていたものは何だったのでしょう。それは何より、「ノアは神と共に歩んだ」ことだったのだと思います。弱い時、迷う時、その思いをそのまま神様に打ち明けながら、神様により頼み、歩んでいった…。それこそ、神様が喜ばれる「義しさ」なのではないかと思います。
先日、H兄の納骨式に出かけました。私たちの教会墓地には、墓碑にマタイによる福音書5章の御言葉が記されています。
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)
私はこの箇所を読む時にいつも思い出すことがあります。それはこの箇所を塚本虎二という神学者が訳した言葉です。
「ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち”、天の国はその人たちのものとなるのだから」
このように「心の貧しい人々」という言葉を、塚本虎二は「神に寄りすがる“貧しい人たち”」と訳しているのです。私はこの訳が深く心に留まっています。貧しい者は、神に寄りすがる者、そうするしかないことを知っている者たちであり、だからこそ、その人たちは幸いなんだ…。イエス様はそのように語っているのだと思います。それは、そのように寄りすがる者を神様は決して見放すことがなく、憐れんでくださるからです。神様が何より望んでいることはこのことなのだと思います。自分の貧しさを自覚し、それゆえに神様に寄りすがる生き方に向かい、そうすることで、天の国の恵みに与かっていくように願っているのだと思います。
私たちが自分の力や頑張りで「非の打ちどころがない」ようにしようとすると、それとは真逆な方向に向かってしまったりするかも知れません。いつの間にか、「自分が」「自分が」という思いに固執し、神様に寄りすがることを忘れてしまうことがあるかも知れないと思うのです。私自身、ついそういう方向に向かってしまいそうになることがあります。そんな自分を自覚しつつ、日々、自分の貧しさを主の御前に告白し、主に寄りすがり、主にある幸いに生かされる者とされていきたいと思いました。