「イエスは大声で叫ばれた」

マタイによる福音書27章32-56節

本日の箇所には、いよいよ十字架にかけられるため、ゴルゴダに向かうイエス様の姿が記されています。エルサレムの町から、イエス様は自ら十字架を担いで運んでいかなければなりませんでした。しかし、イエス様はすでに散々暴行を受けていて、もはや十字架を担ぐことなどできない状況でした。その様子を見た兵士たちは、たまたまその場所を通りかかったキレネ人シモンという人を捕まえ、イエス様の十字架を担がせることにしたのです(27:32)。さらにイエス様は十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)と叫ばれました。これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。私は最初、この箇所を読んだ時、正直、違和感を覚えました。イエス様が神様に対して、「何でですか」と言われている姿にイエス様らしくないと思ったのです。本日の箇所に記されている二つの記述を読む時、思うのは「弱さ」についてです。イエス様は、神様でありながら、人となられました。そんなイエス様に対し、ヘブライ4:15には、イエス様が「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ4:15)ことが記されています。イエス様は罪こそ犯しませんでしたが、私たちの「弱さ」を、身をもって経験されました。迷い、悩み、苦しみながら、時に「神の人」とは思えないような弱々しい姿になられたこともあったのです。その姿に違和感を覚える人がいるかも知れません。実際、イエス・キリストが弱々しく十字架に向かう姿に多く人が躓きました。ですが、その一方で、そんなふうに歩まれたイエス様を見て、「この方こそ、私たちを受け止めてくださる」と心拓くことができるのだと思います。
先日、全国子羊会キャンプが行なわれました。キャンプのメインプログラムは二日目の夜の祈りの時間でした。子どもたちに実際に自分の言葉で祈ってもらう時を過ごしました。ですが、子どもたちがはたして、そんなふうに自分たちの思いを言葉にして祈ることができるだろうかということは大きなチャレンジでもありました。そんな思いの中で当日のプログラムを迎えたのですが、その時に子どもたちに繰り返し伝えたことは、「立派な言葉で祈ろうとしなくていいんだよ」ということでした。祈りというのは、神様とお話することなんだということ、神様は私たちのことを誰よりもご存じで、私たちの心の中にあるものも分かっていてくださっているんだから、その神様にそのままの思いを言葉にして打ち明ければいいんだということを繰り返し伝えました。
そんな子どもたちの姿を見ながら、改めて、私たちは時に、神様に対して「立派な言葉で祈ろう」としてしまうことがあるんじゃないかと思いました。そんな中、私たちの中で「祈り」というものがいつの間にか、ハードルが高くなってしまうことがあるかも知れません。同時にそんなふうに私たちが立派であろうとなるあまり、自分のことで一杯いっぱいになってしまうこともあるかも知れません。私たちの弱さをご存じのイエス様を見上げながら、互いに「祈って!」「祈ってるよ!」と言えるような関係に生かされていけたらと思います。

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