本日のローズンゲンの御言葉です。

賢者は恥を受け、打ちのめされ、捕らえられる。見よ、主の言葉を侮っていながら/どんな知恵を持っているというのか。エレ8:9

知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。Ⅰコリ1:20

私が福島にいた時のことです。教会近くにある新興宗教の信者さんが訪ねました。その人は「キリスト教には何か凄い奇蹟があるのか」と質問されてきました。そして、御自分の信じている宗教について「自分の信じる宗教には、こんな凄い奇蹟がある」「何々さんの病気が治った」「何々さんは仕事で大成功し、社長さんになった」と話しておられました。ただ、よくよく聞いてみますと、それらの話は「誰かから聞いた話」でしたので、実際にその話自体、「本当かな」と思ったのですが、そんなことを言っても仕方ないので、その人の質問に対し、「私は素晴らしい奇蹟を知っていますよ」と答えました。そして、お見せしたのが、星野富弘さんの詩画集でした。星野富弘さんは体育の教師でしたが、ある時、体育の授業で事故に遭い、鉄棒が落ちて首を損傷し、手足の自由を失いました。そのような状況の中、星野さんはイエス・キリストに出会いました。そして、入院中、文字や絵を書き始めたのをきっかけに創作活動をスタートさせました。星野さんの絵や詩は私たちに大切なメッセージを訴えかけてくれます。私はその方に星野さんの詩画を見せながら、こう言いました。

「身体の自由が利かない状況にあって、本当だったら、『神様なんて本当にいるの?』と思ってしまうような状況なんじゃないでしょうか。そんな中、イエス様に出会い、思いが変えられ、このような素敵な草花の絵や、詩を描かれている姿に驚かされます。そして、これこそ何ものにもまさる神様の奇蹟なのだと思うのです。」

その人は、その話を聞き、自分が期待していた話と余りに違っていたのかも知れませんか。「そうですか」とおっしゃったまま、そのまま帰っていかれました。その人が実際、どう思ったのか、何が伝わったかは分からないのですが、その人が「キリスト教には凄い奇蹟があるのか」と訪ねられ、思わず、その話をしてしまいました。本日の箇所には、次のように記されています。

「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。」

当時、多くの人々が、「キリストの教えには、どんな凄い知恵、どんな凄いしるしがあるのか」を求めていました。そんな中、パウロは「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(Ⅰコリント1:22-23)と語りました。そして、この十字架のキリストは、この世の知恵やしるしを追い求める者たちにとっては愚かなものにしか見えないかも知れないけれど、キリストに出会い、福音を信じ、神に召された者にとっては、何よりもかけがえのない神の力、神の知恵なんだと語ったのです。本日の箇所を読みながら、先ほどのやり取りを思い出しました。私たちの周りには、分かりやすい「凄い知恵、凄いしるし」を求める声があるかも知れません。しかし、私たちは何より、十字架のキリストに注目し、そのキリストをしっかりと見上げ、宣べ伝えたいと思います。                      

    鈴木牧人

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