「出会う人となる」

マタイによる福音書28章1-10節

復活の朝、イエス様に最初に出会ったのはマグダラのマリアとイエス様のお母さんのマリアでした。本日の箇所を読みながら、心に留まるのは、彼女たちの「恐れながらも大いに喜び」という姿です。彼女たちは復活されたイエス様に出会った時、驚き、恐れました。それはそうだと思います。二人はこれまでイエス様が十字架につけられ、死なれた様子を一部始終目の当たりにしてきました。そんな二人にとって、イエス様が復活されたということは、とても信じられないことでした。ですが、実際に墓にはイエス様の遺体はありません。そして、目の前には御使いがいて、「イエス様は復活された」と宣言しているのです。目の前に起こっていること一つ一つを思う時、認めないではいられませんでした。二人はそのことに驚き、恐れながら、「神様はこんなことまでなさるんだ」「こんなことまでおできになるんだ」と思わされたのだと思います。そんな思いの中で、二人は恐れ、おののいたのです。
少し前、時代劇の定番と言えば、『水戸黄門』でした。『水戸黄門』の有名なシーンと言えば、悪代官をやっつけた後、最後の最後に、助さん、角さんが徳川家の印籠を見せるというシーンです。それまで悪代官たちは、目の前にいるのが「ただのおじいちゃん」と思って、好き放題しています。ですが、印籠を見て、目の前の人が将軍家の血筋の水戸光圀であることを知らされるのです。その途端、恐れおののき、ハハーと言ってひれ伏します。この場面を見ながら、思うことがあります。人が本当に恐れるべき方と出会う時、目の前のその人が自分にとって恐れるべき方であることを知らされる時、私たちはそういうふうになるんだなということです。私たちがイエス様と本当の出会いをする時、そういう経験をさせられるんだと思います。それまではイエス様のことなんかさほど気に留めていませんし、自分ともあまり関わりがないように思っている私たちが、イエス様との本当の出会いを経験するのです。この方が今も生きておられ、私と共に歩んでくださっていることを知らされ、この方こそが神なんだということを悟るのです。そのことを知らされる時、私たちはそれまでのようにイエス様と向き合うことはできないんだと思います。私たちは「恐れ」を経験するのです。復活のイエス・キリストに出会うということがそういうことなのだと思います。
ただ、その出会いの経験するのは「恐れ」だけではありません。マグダラのマリア、イエス様のお母さんのマリアは、「恐れながらも大いに喜び」ました。恐れる思い以上に喜びに溢れていました。このイエス・キリストが、自分たちの味方であることを知っていたからです。イエス・キリストこそが、自分たちの主であると仰いでいたからです。本日の箇所には対照的な姿があります。番兵たちもイエス様の復活を目撃しました。しかし、彼らは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のように」なりました。彼らの心にあったのは恐れだけでした。同じように、恐れながら、「死人のようになってしまった」人と、「恐れながらも大いに喜んだ」人…。実に対照的です。その違いがどこにあるのでしょうか。イエス様が自分たちにとっての味方であることを知っている者、そのことを知らない者との違いなのだと思います。

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