本日のローズンゲンの御言葉です。

「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」ヨシュア1:5

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」マタイ3:16

昨日、九州バプテスト神学校で授業がありました。その授業の中で分かち合っているテキストの中に、次のような内容の問いかけがありました。

「私たちの働きの主語がイエス・キリストとなっているか」。

私たちに先立っておられ、私たちの歩み一つ一つを取り扱い、導き、守り、支え、成し遂げてくださるのは、主イエス・キリストです。そのことを心にしっかりと刻みながら、そのイエス・キリストを主語として受け止めることができているかという問いかけでした。短い言葉ですが、大切な呼びかけだなと思いました。そして、この言葉を聞きながら、思い出した言葉があります。

「聖書には、使徒言行録という箇所がある。使徒行伝とか、使徒の働きと訳す聖書もある。イエス様との弟子、使徒たちの働きを記した書物だが、その内容というのは、本来、使徒たちの働きではない。そこで働いておられるのは、常に彼らに先立っておられる聖霊であり、本当は聖霊行伝、聖霊言行録と表すべきではないだろうか。」

まさにここにも、「私たちの働きの主語は、主イエス・キリストなんだ」ということが言われているのではないでしょうか。実際、私はこれまでの歩みの中で、そのことを痛感させられてきました。私が神学生の時、姪浜教会で奉仕神学生として学ばせていただいていた時のことです。当時、教会は財政的に厳しい状況があり、執事会ではよくそのことが取り上げられていました。私はその執事会に陪席しながら、「大大丈夫かな」と思ったりしていたのですが、その時に牧師が語っていたのは「祈りましょう」ということでした。毎週の祈祷会の中で、日曜礼拝後の信徒の交わりの中で、教会財政のために祈っていました。結果、不思議な形で必要が満たされていった経験をしました。その様子を見ながら、改めて、私たちの歩みに先立ってくださっているのは、主イエス・キリストなんだということを身をもって知らされました。私の中で忘れらない経験の一つです。本日の箇所には、次のように記されています。

「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。」(3:16)。

ここには、いよいよ福音宣教の働きに出て行こうとされているイエス様の姿が記されています。その働きに出ていくにあたって、神の御霊が下ってきたというのです。まさにイエス様の宣教の働きも、神の御霊、聖霊が伴い、先立って働かれる歩みだったのだなと思います。

私たちの歩みも、同様に聖霊が伴い、先立ち、導いてくださる歩みであることを覚え、祈り求めていきたいと思います。

鈴木牧人

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