「もう大人ですから」
ヨハネによる福音書9章18-23節
ヨハネ9章の冒頭には、イエス様が、生まれつき目が見えなかった人を癒されたという記述が記されています。この出来事は、その後、様々な騒動を引き起こしていきました。多くの人たちが、この人がこれまで路上で物乞いをしていたことを知っていたため、この人がこんなふうに目が見えるようになり、全く別人のようになっている姿に驚いたのです。「この人は本当にあの物乞いをしていた人なの?」「いやいや違うんじゃないの?」と言いあい、騒ぎになりました。この騒ぎを聞きつけたユダヤ人指導者たちが捜査を始めることになります。まず、目が見えるようになった人を呼び出すのですが、この人は正直に、自分はイエスというお方によって目が見えるようになったんだということを証言します。ですが、ユダヤ人指導者たちはそれを信じようとしませんでした。そこで呼び出されたのは、この人の両親でした。両親に対し「この人はあなたたちの息子なのか」「本当に生まれつき目が見えなかったのか」「それが何で見えるようになったのか」と聞き取りが行なわれました。それに対し両親が答えた内容が9:20-21に記されています。両親は「確かにこの子は私たちの子どもです」「この子は生まれつき目が見えませんでした」と答えました。ですが、「その子が今、どうして見えるようになったのか、誰が目を開けてくれたのかも分かりません」と語ったのでした。そして、「そもそも、この子はもう大人なんですから、本人に聞いてください」と訴えたのです。
そんな両親の姿を思う時、目が見えるようになった人はどういう思いだったでしょう。この人は生まれつき目が見えませんでしたが、イエス様との出会いにより、見えるようになりました。こんな嬉しいことはなかったのだと思います。ですが、そうなったおかげで面倒なことに巻き込まれてしまいます。ユダヤ人指導者たちに目をつけられ、あれこれ言われてしまうのです。この人は何も悪いことはしていませんでしたし、自分の身に起こったことをそのまま語っただけでした。ですが、そうすることでさらに目をつけられ、危うい状況になってしまいます。この人にしてみれば、そういう状況の中で、自分のそばに誰かいてほしかったのではないでしょうか。でも、そういう時に、両親は「この子はもう大人ですから、この子に聞いてください。自分たちは関係ありません」と語るのです。この人として、心細く、肝心な人に見捨てられてしまったかのような思いになったのではないかと思います。
ですが、何というのでしょう。この人は、これまでもずっとそういう思いを経験していたのではないかとも思います。この人がまだ目が見えず、道端に座って物乞いをしながら、過ごしていた時、ずっとそういう思いにさせられてきたのではないでしょうか。目が見えるようになり、状況は大きく変わりましたが、それでも孤独な思いを通らされたり、色々なものを背負わなければならない状況にさせられてしまいました。ですが、やはり決定的に違っていたことがありました。この人はイエス・キリストに出会ったのです。そのイエス様との出会いの中で、この人は独りではないということを知らされました。自分を見捨てずに共に重荷を担ってくださる方がおられることを知ったのです。