「真理とは何か」

ヨハネによる福音書18:28-38a

イエス様は、ユダヤ人たちに捕らえられ、大祭司カイヤファの屋敷に連れていかれました。散々酷い扱いを受け、裁判とは言えないような裁判を受けさせられた後、エルサレムを統括していたローマ人の総督ピラトのもとに連れていかれました。そんな中、本日の箇所には「しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(18:28)と記されています。ユダヤ人たちはピラトの官邸まで来ると、その入り口で留まり、中に入ろうとしなかったというのです。過ぎ越しの祭りの間に異邦人の家に入るなら、汚れてしまうからでした。この一連の行動を見ながら、何とも言えない思いにさせられます。ユダヤ人たちはピラトの官邸にお願いに来ていました。しかも明け方早く来ていました。迎える側にしてみれば、本当に迷惑な話だったのではないでしょうか。にも関わらず、官邸の中には入ろうとしない、入ったら汚れると考えているのです。ピラトの立場からしたら、こんな失礼なことはないんじゃないかと思います。朝方に強引な形で、勝手なお願いをしに来ながら、自分たちのことを汚れた存在だと蔑んでいるのです。そんな彼ら自身は、自分たちのことを問題だとは考えていなかったろうと思います。彼らからすれば、それは当たり前のことでした。しかも、その考えは、彼らからしてみれば、御言葉に基づくものでもありました。
そんなユダヤ人たちお姿を見ながら、問われるように思います。私たちは、時に、こんなふうに、聖書の御言葉を「いびつな形」で受け取ってしまうことがあるんだなと思うのです。「聖書にはこう書いてある」ということに基づき、行動しているのですが、そこでしていることは、本日のユダヤ人たちのように「いびつな形」で、おかしな方向に向かっているのです。彼らは神様の御言葉に従っていると言いながら、実際は神様の願っている方向とは全然違う方向に歩んでいました。神様の愛するひとり子を殺そうとしてしまうような方向に歩んでいきました。そんな彼らのことを私たちが考えなければならないのだと思います。
私たちは聖書の御言葉には「力」があると信じています。聖書の御言葉には、真理があり、命があり、変わることがない希望があると信じています。ですが、そのように信じるがゆえに、わきまえていなければならないことがあります。それは「力」というのは、乱暴に扱うなら、それは「暴力」になってしまうことがあるということです。聖書の御言葉もそうです。私たちが、もし聖書の御言葉を乱暴に受け取り、扱うなら、その聖書の御言葉が暴力になることさえあるのです。本日のユダヤ人たちはまさにそうなのではないでしょうか。私たちはこのことをよくよくわきまえて、私たちは聖書の御言葉に向き合い、聖書の御言葉を分かちあっていくことが必要なのだと思います。ただ聖書に「こう書いてあるから」ということだけを受け止めるのではなく、その聖書が私たちに何を語っているのか、今、私たちは、この時代を生きている中で、これらの聖書の御言葉をどのように聞き取っていくべきなのかということを丁寧に考えていきたいと思うのです。「聖書の御言葉をどう読むのか」ということは、今の時代、大きく問われているのだと思います。

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