「バラバのこと」
ヨハネによる福音書38b-40
バラバは「強盗」(18:40)と書かれています。ですが、単なる物取りではなかったのだろうと思います。註解書には、バラバは熱心党の一員だったのではないかと書かれていました。熱心党というのは、当時の政治に不満を持ち、自分たちなりの理想を掲げてそれを実現しようとしていた人たちでした。ただ、考え方は非常に過激で、そのように自分たちの理想を実現するためには、どんな手段をも選ばず、暴力を使ってでもそうしようとしていた人たちでした。バラバが捕らえられた暴動もそのようなもので、ローマからの解放を目指し、行動を起こしながら、結果、それは失敗し、そこで人が亡くなり、バラバは逮捕されたのでした。そんなバラバには、バラバなりの正義があって、この世界の状況に対して、おかしい、間違っているという思いはあったのだろうと思います。ですが、そんなバラバの行動を周りの人々が支持されていたわけでもなかったようです。ローマ帝国に抗いって命がけで行動を起こしたということは、人々からは英雄のように見られることもあるのだと思います。ですが、バラバの場合は必ずしもそうではなかったようです。ですから、本日の箇所で、ピラトはバラバを選んで連れてきたのです。ピラトの考えとしては「イエス様の横にバラバを並べれば、当然、人々はイエス様を選ぶだろう」という思いがあったのでした。しかし、その思惑は外れました。人々はイエス様ではなく、バラバを釈放するように求めたのです。
本日の箇所を読む時、「何とも皮肉だな」と思います。バラバという人は、世の理不尽に抗い、暴動まで起こしたのです。ですが、本日の箇所で起こっていることこそ、理不尽極まりないことでした。何の罪も犯していないイエス様が断罪され、罪を犯したバラバがなぜか釈放されてしまうのです。しかも、みんなバラバを釈放させたかったわけではなく、イエス様を十字架につけるために、バラバの釈放を求めたのでした。こんな理不尽な話はありませんでした。そして、その理不尽な出来事を通して、バラバは救われたのです。何とも皮肉な話なんじゃないでしょうか。ですが、それが神様の御心でした。
本日の出来事を読む時、箴言19:21の「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」との御言葉が心に迫ってきます。バラバには、バラバなりの思い、正しさがありました。その正しさに基づく「ゆずれないこと」「ゆるせないこと」がありました。ですが、そんなバラバがしていることを、周りの人たちは「ゆるせない」と考えていました。そういう状況の中、バラバは行き場を失い、牢獄に捕らえられていたのです。そんなバラバに、主の取り扱いが起こされました。バラバの思い、人々の思いを越えて、神様の御心がなされ、バラバは救われたのです。改めて、ここに救いがあるんだと教えられます。私たちには、バラバのように、それぞれの思い、正しさがあります。ですが、その思いがぶつかりあい、にっちもさっちもいかなくなってしまうことがあります。人の思い、正しさでは、解決の道が見えなくなることがあるのです。そんな私たちが「私たちの思いを越えて真実をなされる神様」を見上げていくのです。その時、私たちの歩みに救いの道が拓かれるのです。
