「見よ、この男だ」

ヨハネによる福音書19:1-7

ピラトの命令により、イエス様は鞭を打たれることになりました。その後、ローマ兵たちは、イエス様の頭に茨で編んだ冠をかぶせ、紫の服をまとわせました。ローマ兵は、まるで子どもがいたずらでもするかのように、イエス様を痛めつけていきます。その様子を思い浮かべながら「人はこんなにも残酷になれるのか」と思ってしまいます。ただ、ある本に「兵士たちの振る舞いは珍しいことではない。戦争が起こると兵士たちは捕虜たちに対し、これらことを平気で行なうようになっていくんだ」と書かれていました。改めて、戦争は私たちの人間性というものを奪っていくんだなと思いました。私たちが本来、大事にしているはずの人間としての「心」のリミッターが解除されてしまうと言いますか、人としての歯止めが利かなくなり、どんどん人間性を失わせていくのです。本日の箇所の兵士たちの姿は、そんな私たちの姿を現しているのだと思います。しかも悩ましいのは、そのように兵士たちに鞭を打つように命じたピラトだったということです。ピラトは、本当はイエス様を助けようとしていたのでした。そんな中、イエス様を鞭で打つことを通して、「これだけ痛めつけたんだから、もういいでしょ、もう解放してあげよう」としようとしていたのです。そのように、本当はピラトはイエス様を苦しめようとは思っていなかったのです。ですが、が実際にしていることは、イエス様をどんどんと苦しめることとなり、結果として、ピラトは、イエス様のことを十字架につけていく張本人の一人となってしまうのです。そんなピラトのことを思う時、何とも言えない思いにさせられます。
その後、イエス様は人々の前に連れ出されてきました。そのイエス様を指して、ピラトは「見よ、この男だ」と人々に呼びかけます。ピラトとしては、散々傷つき、弱り果てているイエス様を見れば、人々の気が変わり、「十分だ。釈放してあげよう」と言ってくれると期待して「見よ、この男だ」と呼びかけたのだと思います。ですが、人々はさらに「十字架につけろ」と叫びました。その様子を思う時。人々はピラトが見てほしいと思っていたようなことは何一つ見ていなかったのだろうなと思います。見えていなかったのだろうと思うのです。そして、それというのは、この時だけの話でもなかったのだろうなとも思います。
そんな本日の登場人物を見ながら、どうでしょう。私たちは彼らが無関係だと言えるでしょうか。私たち自身の中に、彼らのような愚かさ、的外れはないだろうかと思います。十字架に関する記述を読む時、いつも心に迫ってくることはそのようなことです。人々の姿に、私たち自身の姿が重なってくるのです。そして、そのように、そのことが重なってくる時、イエス様は私たちの罪のために死なれたとの言葉が心に迫ってきます。祭司長たちや下役たちは、ピラトから「見よ、この男だ」と言われても、まともに見ようとしませんでした。ですが、彼らが本当にイエス様と真摯に向き合い、イエス様のことをきちんと見ようとするなら、さらに見えてきたはずのことがありました。それは、このイエスこそが、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1:29)ということです。

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