「十字架につけろ」
ヨハネによる福音書19:8-16a
本日の箇所には、イエス様が裁判の席で、十字架につけられることが決定してしまう様子が記されています。ピラトとユダヤ人たちのやり取りに注目したいと思います。ユダヤ人たちはピラトに対し、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と訴えましたが、「それって本当にそうなの?」と思います。イエス様を釈放することが、本当に皇帝に背くことなのでしょうか。ピラトがイエス様を釈放しようとしていたのは、イエス様は罪を犯していないと考えたからでした。罪を犯していない人を釈放することが何故、皇帝に背くことなのでしょうか。ユダヤ人たちの言い分からすれば、イエス様はユダヤ人の王と自称していて、それは皇帝に背く立場で、そんな者をそのままにしてしまうことはいけないというものでした。ですが、実際にイエス様が皇帝に反旗を翻している証拠などないのです。それより、イエス様の代わりにバラバを釈放しましたが、バラバのほうがよほど危険人物で実際にローマ帝国に反旗を翻した人物だったのです。人々はそんなバラバに対しては釈放することを要望したのです。皇帝に背く者の味方は一体誰なのでしょうか。言っていることの理屈があってないんじゃないかと思います。そんなふうに、本日の箇所のユダヤ人たちのピラトに対する訴えというのは、さも、もっともらしくも聞こえたかも知れませんし、彼らの論理としては、ユダヤ人がまっとうなことをしていて、ピラトの方が攻められているかのような、そんな構図になってしまっているのですが、よくよく考えます時に、彼らの言っていることは色々とおかしいですし、論理に矛盾があったり、「どの口が言うの?」と言いたくなるようなことが語られているのです。ですが、不思議なことに、そういうおかしな理屈がまかり通って、さもその言い分が正しいかのような、そんな雰囲気になっているのです。ピラトはそのことが見抜けませんでした。不安や恐れの中で、その場の雰囲気に呑まれ、冷静な判断がつかなくなってしまっていたのです。
そういうことってあるんじゃないでしょうか。言っていることは、表面的にはもっともらしく聞こえるのですが、そこで言われていることは、冷静に考えれば、おかしいと思うことがたくさんあって、言っていることも辻褄があっていなかったりするのです。肝心なことがうやむやにされ、事柄が都合よく、すり替えられているのです。そして、いつの間にか、その状況に呑み込まれ、事柄を見抜くことができなくなってしまっているのです。
そうならないようにしたいと思います。そして、そのためにも聖書の御言葉が必要だと思います。聖書の御言葉に繋がって、聞き続けること、その御言葉に立ち戻り続けることが必要だと思うのです。そのことが何より、この時代にあって、物事を見分け、ちゃんと事柄に向き合う知恵を与えてくれるものなのだと思うのです。同時に、自分一人でそのように御言葉に繋がろうとするのではなく、兄弟姉妹の交わり、祈り、支えの中で御言葉に繋がるということも大事にしていきたいと思います。そのようにしながら、この時代にあって、物事を見分け、賢明さと冷静さをもって、歩むことができたらと思うのです。
