本日のローズンゲンの御言葉です。
「主はその悪を見張っておられ、それをわたしたちの上に下されました。わたしたちの主なる神のなさることはすべて正しく、それに対して、わたしたちは御声に聞き従いませんでした。」ダニエル9:14
「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」ローマ3:26
昨日、九州バプテスト神学校の講義がありました。その中で、「対話」ということについて話し合いました。講義の中で読みあっているテキストにはこのような内容のことが書かれていました。
「対話は大事である。しかしながら、対話を通して、必ずしも分かりあえるわけではない。私たちには根深い罪性、『的外れ』の性質がある。だから、誰かに何かを語る時にも、その言葉が中々相手に伝わらないことがある。自分の言っていることをきちんと相手が受け止めてくれなかったり、そもそも自分の言葉が足りなくて、自分の思いをきちんと言葉にできなかったり、自分も相手の思いを受け止めきれていなかったりすることがある。そんなふうに対話を繰り返したところで、互いに分かりあえるかと言うと必ずしもそうではない。時に相手との違いを浮き彫りにし、その対話を通して、お互いに間に深い隔たりがあることをより一層感じてしまうことがあるかも知れない。」
その文章を分かち合いながら、「確かにそういうことがあるかも知れない」ということを話し合いました。ただし、このようなことも書かれていました。
「そのような対話ができない私たちが『共に』という世界に生かされていくのは、主の言を共に見上げ、共通の言に導かれていくことによってのみなんだ。」
テキストの言葉をわかちあいながら、改めて、「対話の大切さ」確認しました。しかしながら、私たちの現実では対話の難しさを感じてしまうことがあるかも知れません。しかし、そういう時こそ、神様の助けが必要だし、神様なしには生きられない私たちがいることに気づかされていくんじゃないだろうかということを分かち合いました。
本日の箇所には、次のように記されています。
「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」
この御言葉を読みながら、九州バプテスト神学校での分かち合いを思い出しました。現在、人と人とが繋がりあうこと、対話をすること、そういうことの難しさを痛感します。しかし、だからこそ、私たちはより一層「神様が必要だ」「神様なしは歩めない」ということに気づかされていくのかも知れません。神様は私たち自身がそのように気づくことを待っておられた…。本日の「神は忍耐してこられた」という御言葉を読みながら、そんな神様からの呼びかけが心に迫ってきました。改めて、今の時代、難しいこと、悩ましいことがたくさんありますが、その中で、何よりもまず、神様に目を向けることができたらと思います。
鈴木牧人
