「あなたがたがご存じないとは」

ヨハネによる福音書9章24-34節

本日の箇所には「ユダヤ人指導者たち」と「目が見えるようになった人」とのやり取りが記されています。本日のやり取りを見ながら、「ユダヤ人指導者たち」と「目が見えるようになった人」のどちらが冷静で真っ当なことを語っているように見えるでしょう。「目が見えるようになった人」の方なんじゃないかと思います。ユダヤ人指導者は、最初から「こうだ」ということを決めつけ、相手の言葉に耳を傾けようとしていません。終始、「自分たちのほうが分かっている」「自分たちのほうが正しい」と思っていたのでした。ですが、そんな彼らは、周りから見て、「明らかにおかしい」と思ってしまいます。ですが、ユダヤ人指導者たちは、そんな自分たちの姿に気づいていかなかったろうと思います。そんなユダヤ人指導者たちのことを思う時、「この人たちは本当に見えてないな」と思ってしまいます。自分たちのことが見えていないと思ってしまいますし、目の前で起こっている出来事、イエス様が生まれつき目が見えない人を見えるようにしてくださったことに関しても、それがどんなに素晴らしい神様の御業なのかということも見えていないと思うのです。目が見えるようになった人が語った「あなたがたがご存じないとは、実に不思議です」(9:30)という言葉がそれを象徴的に表しているのだと思います。
そして、このことがまさにヨハネによる福音書9章が語っている大切なテーマでした。ヨハネによる福音書9章にはテーマがあります。それは「見える」ということに関するテーマです。まず冒頭に生まれつき目が見えなかった人が登場します。この人はイエス様によって見えるようになりました。ただ、それというのは、身体的な視力の回復ということだけではありませんでした。この人はもっと大切なものが見えるようになったのです。この人は、これまで様々な思いに縛られていました。そして、自分は周りの人たちからも、神様からも見離されていると思いながら歩んできたのです。そういう状況の中で、イエス様に出会い、変えられていきました。自分が孤独ではないこと、私を見つめ、愛し、共に歩んでくださっているお方がいるということが見えるようになっていったのです。
これに対し、対照的な形で記されているのが、ユダヤ人指導者たちの姿です。彼らは身体的な意味では、目が見えていた人たちでした。そのこと以外にも、彼らは自分たちには分かっている、見えている、そういう自負があったのだと思います。しかし、そんな彼らを見ていく時、色々なことが見えていないんじゃないかと思えてしまうのです。本日のやり取りを見ていても、「自分たちが言っていること、していることはおかしい」ということが見えていないんじゃないかと思ってしまいますし、何より、こんなに素晴らしい神様の御業が起こっているのに、全然見えていないのです。
どうでしょう。私たちは自分のことが見えているでしょうか。私たちの只中で起こされている神様の取り扱い、神様の御業が見えているでしょうか。そのことが見えていない私たちがいないでしょうか。

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