「牧草を見つけた人」

ヨハネによる福音書10章7-9節

本日の箇所で、イエス様は、御自身のことを「わたしは羊の門である」と言われました。そして、私たちにその門を通るように呼びかけておられるのです。その門は私たちにとっての救いの門です。そして、その門を通る時、私たちは宝を見出すことができるのです。私たちはその門を出入りする中で、牧草という宝を見出すことができるのです。
羊というのは、よく目が悪いということが言われますが、実はそうではなくて、本当は色々なものが見えているんだというお話でした。人間の目は190度見ることができると言われているのですが、羊の目は320度見渡せることができるそうです。目が顔の横の部分についていますから、前と後ろを同時に見渡すことができるのです。じゃあ、何で目が悪いと言われてしまうのでしょうか。羊はしばしば群れから外れて迷ってしまったり、あやまって穴に落っこちたりしてしまうことがあるからです。「見えているんじゃないの?何で?」と思ってしまいます。見えているようで、肝心なものが見えていないということでしょうか。視野は確かに広いかも知れませんが、一つ一つのものはぼやけてしまって、ちゃんと見えていないのでしょうか。せっかく見えていたとしても知恵が足りず、色々な判断をすることができないのでしょうか。いずれにしても、羊というのは、見えているはずなのに、群れからはぐれて迷ってしまうことがあるのです。それゆえ、目が悪いと言われてしまうのです。加えて、羊は大変、臆病で、自分の身を守るすべもありませんから、群れからはぐれてしまうと大変です。本当に困って、自分ではどうすることもできないのです。
 そんな説明を聞きながら、私は確かに「私は羊だな」と思いました。色々なことが見えているようでいて、実は見えていないということがあるのではないかと思います。自分に見えていないという自覚があれば、もう少し慎重になったりするかも知れません。ですが、なまじっか見えているという自覚があったりするものですから、そのことをわきまえたりすることなく、どんどん進んでしまったりするのです。結果、迷ったり、思わぬ落とし穴に落ちてしまったりしてしまいます。そんな私たちにイエス様は「私こそが、あなたにとっての門、入口なんだよ」と言われました。未だに迷いやすい私たちがいるのですが、そんな私たちに、イエス様は「ここに来なさい。ここを通りなさい。この入り口から始めなさい。そうすれば大丈夫。この先にあなたにとっての救いの世界が広がっているんだ。迷ったって、検討違いの方向に向かったっていいから。この門を通ることだけは間違えないようにしなさい」とおっしゃっているのです。そんなふうにイエス様という門に向かい、そこからスタートしていく時、そこを出入りしていく時、私たちはきっと見出すことができるものがあります。10:9にありますように、私たちはイエス様という門を出入りしていく中で、牧草を見つけることができるのです。「出入りして」ということは、最初からすぐに牧草を見つけることができるわけではないかも知れません。しかし、しばらく出入りしていく時、必ずやその牧草を見出すことができるのです。

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