本日のローズンゲンの御言葉です。
「追い散らされたイスラエルを集める方/主なる神は言われる/既に集められた者に、更に加えて集めよう、と。」イザヤ56:8
「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」マタイ24:14
昨日、教会で誰かが来た音が聞こえてきましたので、行ってみると、西南学院で勤めておられるO兄が来ていました。教会の掃除当番の働きをしてくださっていたのです。私が声をかけたところ、O兄は「今日、西南でO姉がお話ししてくれましたよ」と教えてくれました。O姉はアトゥトゥミャンマーの働きをして担ってくださっています。そのことを西南大学のチャペルメッセージで話をしてくださったのでした。水曜日の午前中のメッセージでしたので、私は駆け付けることができなかったのですが、O兄を始め、色々な方が話を聞いてくださったということでした。西南の学生さんたちの中で一人でも多くの方にミャンマーのことを知っていただき、覚えていただけたらと思います。
イスラエルとイランとの戦闘が始まっています。そんな中、ガザの人たちが「自分たちは忘れられようとしている」と訴えていました。確かにそうだと思いつつ、ミャンマーのことは、なおさらではないかと思わされました。なおさら、ミャンマーのことが忘れられてしまわないように祈らされます。
今朝、NHKの朝ドラを見ていたところ、こんな台詞がありました。戦場の理不尽さ、不条理、悲しさを目の当たりにしながら、こんなふうに言うのです。
「以前、俺はお前に、戦場で生き抜くために『卑怯者』になることが必要だと言ったな。覚えているか。『卑怯者』というのは、すぐに忘れてしまう。お前はどっちだ。」
様々なことを考えさせられる台詞でした。私たちは戦場にいる訳ではありません。しかし、この台詞は、私たちにも突きつけられているのではないでしょうか。私たちというのは、忘れなければ、前に進めないということがあるかも知れません。「しかし、それで本当にいいのか」「簡単に割り切っていいのか」ということを突きつけられる思いでした。本日は、福岡大空襲を覚える日です。80年前の今日の出来事について思いを巡らせながら、ミャンマー、ガザの出来事について考えながら、今朝の朝ドラの台詞について考えさせられています。
本日の箇所には、次のように記されています。
「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
この御言葉を読みながら、「証し」という言葉が心に留まります。この時代にあって、私たちはどのような「証し人」とされているのでしょう。何より、イエス・キリストを見上げ、従いつつ、歩んでいくことなのだと思います。イエス・キリストは何より、この世界で小さくされている人、痛んでいる人の傍らに寄り添い、命の大切さ、平和の大切さを指し示していかれました。そのイエス・キリストを見上げつつ歩んでいけたらと思います。ほんのささいなことしかできないかも知れません。それでも私たちの足もとからできる「証し」の働きをなしていくことができたらと思います。
鈴木牧人
