「良い羊飼い」
ヨハネによる福音書10章10-21節
ヨハネ10:14には「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」と書かれています。この言葉をよむ時、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っている」ということまでは分かります。ですが、「羊もわたしを知っている」とはどういうことだろうと思います。私たちが「羊」として、「羊飼い」であるイエス様のことを知っているという時に、私たちはイエス様のことを、何を、どこまで知っていると言えるのでしょうか。私がもし、「あなた、イエス様のこと、知っているか?」と言われるなら、正直、当惑してしまいます。もちろん、それなりに「イエス様のことは知っています」という自負はあります。ですが、「本当に知っているのか」と言われてしまう時、分かっているようで、分かっていない自分を突きつけられるように思うのです。そんな中、本日の箇所にある「羊はわたしを知っている」という言葉も、どこか戸惑ってしまう思いにさせられます。ですが、イエス様は私たちにそういうことを要求されているのでしょうか。「イエス様のことを何でも知っています」と答えることを求めておられるのでしょうか。そうじゃないんじゃないかと思うのです。ただ、こんなふうにも思います。「私はイエス様のこと、分からないこと、分かっていないことだらけかも知れないけれど、知っていることがある。それは、この方が私の羊飼いであり、良い羊飼いだ」。そして、10:14で「わたしは自分の羊を知っており」と書かれていますように、私はイエス様が「私のことを知ってくださっている、私のことを分かってくれている」ということを知っているのです。そして、この羊飼いが私に命を与えようとしてくれていることも知っています。私は少なくても、そのことを知っているのです。
羊というのは非常に迷いやすく、臆病で、ともすると、すぐ道をそれてしまったり、どこに向かえばいいか分からなくなってしまったりするような動物です。そんな羊にとって、何より知っているべきことは、この私をきちんと導いてくれる方は誰かということです。私自身は分からないことだらけです。未だに迷ったり、悩んだり、ともすると、どこに向かってしまうか分からないような危うさを抱えています。ですが、この私をちゃんと導いてくださる羊飼いを知っていて、この羊飼いは良い羊飼いだと分かっています。それで十分なのだと思います。私たちはそのことを心に刻み、羊飼いに身を預け、歩んでいくのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架と復活の出来事を見上げつつ、「この方こそが私たちの羊飼いです」告白し、従っていきますのです。信じることを止めない生き方、命を何より大切にする生き方を選び取っていくのです。ともすると、自分のことしか心にかけず、お互いに奪いあい、盗みあうような生き方に流されてしまいそうになる時代です。そのような時代にあって、イエス様に出会い、取り扱われていく中で、信じるに足るもの、愛するに足るものを見出し、本当の命にいたる歩みとは何か、どこにあるのかを求めていく者にされていけたらと思います。
