「神の愛が全てを覆う」
使徒言行録2章1~13節
本日の箇所には「五旬祭の日が来て」(2:1)と書かれています。この「来て」は原文のギリシア語では「来て」というより「満ちて」という意味の言葉が使われています。実際、他の聖書では、この箇所を「五旬祭の日が満ちて」と訳しています。五旬祭の日が満ちた時に聖霊が降られたのは、「満を持して」の出来事だったのです。実際にそうでした。神様が私たちのもとに聖霊を送ってくださったのは、「満を持して」の出来事でした。その背後には壮大な神の御計画がありました。何より、イエス・キリストの十字架と復活の出来事がありました。そのことなくして、聖霊が私たちのもとに降ることはなかったのです。
さらに、聖霊が降った際、天から激しい風が降ってくるように降りてきて、そのまま家全体を丸ごと覆っていきました。このことも印象的です。イエス・キリストの十字架と復活を通して送られた聖霊は、丸ごと覆うように、弟子たちを捕らえてくださったのです。この記述を読む時、ある牧師の言葉を思い出します。「神様はね。私たちをありのまま、そのまま受け入れてくださっているんですよ。ありのまま、そのまま愛してくださっているんですよ。そのことを信じてください。ただ、もし私たちがその神様の愛に出会っていくなら、きっとその愛は私たちを変えます。神様の愛は、私たちをそのままではきっといさせない…。愛を通して、私たちを創り変えてくださるんですよ。」使徒2章で聖霊が降った様子は、そのことを象徴するような出来事だったのではないでしょうか。聖霊は弟子たちを丸ごと覆ったのです。ここに、私たちの信仰の出発点があります。私たちはしばしば、この順序が入れ替わってしまうことがあります。私たちが「こうするなら」、「こうなれるなら」「私たちを愛してくださる」というふうに、神さまの愛を「条件付きの愛」にしてしまうのです。結果、本当の意味で神様の愛に出会うことも、安らぐことも、その愛によって創り変えられていくこともないということがあるのではないでしょうか。神様の愛にきちんと出会うことの前に、自分で何とかしようと必死になっているのです。まず、この神様の愛に出会いたいと思います。イエス・キリストの十字架と復活を通し、降った聖霊は、私たちは丸ごと受け入れ、捕らえてくださるのです。この神の愛が、赦しが、私たちを新しく創り変えるのです。
この日、この場所には、エルサレムには世界中からユダヤ人たちがやって来ていた様子が記されています。彼らは自分の生まれ故郷の言葉で使徒たちが神の偉大な業を語っているのを聞きました。彼らはこの時に、どんなふうに思ったでしょう。何より「自分たちは見棄てられていない」と思ったのではないでしょうか。遠く異国の地で、信仰を続ける中、時に自分たちはどこか「蚊帳の外」にいるんじゃないかと思ったこともあったかも知れません。そんな彼らにとって、自分たちの故郷の言葉で神の言葉が語られているのを聞いた時、自分たちに神様の目が注がれ、覚えられていることを痛感したのだと思います。聖霊の働きを通して、人々は聖書に書かれている一つ一つの神の言葉を、自分たちとはかけ離れた世界の言葉ではなく、他ならぬ私の生活に語りかけられている言葉として受け止めたのだと思うのです。
