本日のローズンゲンの御言葉です。

「あなたはわたしの隠れが、わたしの盾/御言葉をわたしは待ち望みます。」詩編119:114

「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」ヨハネ6:40

昨日、九州バプテスト神学校で前期最後の講義が行われました。前期に一度、所用で休講にしてしまう時があったため、昨日は補講を兼ねて、二コマ分の講義を行なうことになりました。テキストの本を読みながら、皆さんと様々なことを話し合ったのですが、その中で印象的な一文が次の言葉でした。

「ここでわれわれが思い起こさなければならないのは、赦しの言は、人間の生活の中に、主権的にはいりこむ言のことであり~一種の主権交替が起こるのである。」(『牧会学Ⅰ』P.328)

ここには、聖書のメッセージを通して、私たちが「赦しの言」を聞く時、「その言葉というのは、私たちの生活の中に主権的に入りこむんだ」ということが書かれています。そのように入りこまなければ意味がないのです。昨日はそのことを分かちあいました。たとえば、私たちが、自分の中に何かしらの負い目や引け目を感じていたとします。誰かがそんな私たちに対して「そんなこと気にすることがないよ、大丈夫だよ」と声をかけてくれます。その言葉は、私たちにとって励ましや慰めとなるのだと思います。ですが、もしその言葉が私たちの「主たる言葉」でなかったとしたら「そんなふうに言ってくれてありがとう」とは思うかも知れませんが、その人にとって本当の意味で救われることはないのだと思うのです。これに対して、赦しを語ってくれている相手が、私にとっての「主である存在」であるなら、その言葉は私たちにとって決定的なものとなります。たとえ周りからは色々な声が聞こえてきたとしても、そんな言葉は「気にならない言葉」とさえなっていくのです。

以前、一人の女性が証しをしてくださいました。その方は農家に嫁いでいきました。ですが、嫁ぎ先の姑さんからたくさんの酷いことをされ、深く傷ついていました。結局、その方が嫁ぎ先を出ていかざるを得なくなりました。人生のどん底と思える状況で、教会に来て、イエス・キリストに出会いました。やがて、その方に「姑さんに謝りたい」という思いが与えられました。ですが、姑さんは「何を今さら」という態度で冷たい態度を取られます。またさらに酷いことを言われたりしました。にもかかわらず、彼女はこんなふうに語るのです。

「わたしは、イエス・キリストに出会い、罪赦されました。そのことを思う時、もう以前のように、あの人の言葉は心に刺さらなくなったんです。」

「赦しの言は、人間の生活の中に、主権的にはいりこむ」とは、こういうことなのだと思います。本日の箇所には、次のように記されています。

「あなたはわたしの隠れが、わたしの盾/御言葉をわたしは待ち望みます。」

本日の御言葉を読みながら、先ほどの女性のことを思い出しました。この方はイエス・キリストを「わたしの主」とお迎えした時、その「赦しの言」が救いの言葉となりました。その時、周りからの様々な言葉があっても、そのイエス様が「隠れが」となり、「盾」となったのです。イエス様の言葉こそ、より頼むべき希望となったのです。私たちもそのようにイエス様をお迎えしたいと思います。

鈴木牧人

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