本日のローズンゲンの御言葉です。

「あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い、主よ、わたしは力づけられます。」詩編 119:52

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」Ⅱコリント5:1

本日の箇所には、次のように記されています。

「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」

この御言葉を読みながら、「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても」との言葉が心に留まりました。そして、思ったのは先週、東京に行った時のことでした。金曜日から日曜日にかけて東京に行きました。私はよく出張で東京に行っていますが、加織と東京に行くのは久しぶりです。私も加織も東京に長く住んでいたので、東京の町はそれなりに知っているつもりです。ですが、東京に住んでいたのは、30年も前のことになりますので、本当に様変わりしてしまっています。今回、色々なところに行きながら、「以前はこんなじゃなかったなぁ」と話し合いました。その一つが日曜日に訪れた志村教会でした。志村教会は、私が大学卒業まで通った教会です。幼稚園もこの教会でした。礼拝堂や一階のホールなどは当時の面影そのままの様子なのですが、教会の会堂横には教育館が建っていました。私たちは礼拝を献げた後、主に過ごしていたのは、むしろその教育館でした。ですが、教育館は建物の老朽化に伴い、解体せざるを得なくなり、今は更地の状況になっています。本日の「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても」との御言葉を思う時に、かつてはそこにあったはずの建物を思い浮かべます。ただ今回志村教会に行って思いましたのは、そんなふうに建物など色々なことが変わったとしても、主にある兄弟姉妹の交わりは変わらないということでした。志村教会では、本当に何十年ぶりに再会する人たちがたくさんいました。何人も人から「わたしのこと覚えていますか」と言われ、それに対して「もちろんです」と答えました。また、礼拝の献金の時に、特別讃美がなされたのですが、その中で讃美を歌ってくれていたのは、姪浜教会のIさんたちのお孫さんのYくんやMちゃん、そして、三月まで姪浜教会にいて仕事で東京に引越していかれたO兄でした。姪浜教会のメンバーとこんなところで再会し、一緒に礼拝をすることができることに不思議な神さまの取り扱いを思いました。そんな一つ一つのことを思いながら、きっと天国でもそんなふうに懐かしい再会があるんだろうなと思いました。そのことを思う時に、私たちには「人の手で造られたものではない天にある永遠の住みか」が与えられていることを思うのです。

鈴木牧人

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