「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」

ヨハネ10:22-42

これまでヨハネによる福音書には、イエス様とユダヤ人たちとの様々なやり取りが記されています。そんな中、ユダヤ人たちはイエス様から様々な話を聞いたり、様々な御業を見たりしてきたのですが、それをどう受け止めればいいか分からないでいました。そんな中、彼らはイエス様のところにやって来て、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」と語ったというのです。10:24の御言葉を読みながら、「気をもませている」という言葉について調べてみました。直訳すると「心、魂を持ち上げる、取り上げる」という言葉が使われていました。イエス様に対して「いつまで、あなたは私たちの心を持ち上げているのか」と言っているのです。私たちが誰かに心を持ち上げられたりするということを想像したいと思います。そんなことされたら、落ち着かないし、もどかしい思いにさせられるのだと思います。そういう感覚です。この時、彼らは、イエス様とのやり取りを通して、何とも言えないモヤモヤした思いを抱えながら、「いつまでこんな思いにさせるんだ。早くはっきりさせてほしい」と訴えているのです。
私たちは、時に、イエス様と向き合おうとする歩みの中で、こんなふうに「もどかしい思い」をさせられることがあるのではないかと思います。イエス様に向き合おうとするがゆえに、言葉には表せないモヤモヤ、落ち着かない思いを通らされることがあるのです。イエス様は本日の箇所で「これ以上、気をもませないで、はっきり言いなさい」と訴えるユダヤ人たちに対して、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」(10:25)と言われました。このイエス様の言葉が心に迫ってきます。ユダヤ人たちの中にあった「もどかしさ」というのは、結局、彼ら自身が「イエス様の声を聞けていない」「聞こうとしていない」ことから来るものだったのです。私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。実際、自分自身の経験として、そういう自分がいることを思います。「イエス様の言葉を聞く」と言いながら、どこか自分で色々なことを考え、答えを自分で決めてしまっているのです。結果、「イエス様の声を聞けていない」「聞こうとしていない」私がいたなと思います。
そのように考える時、私たちがもどかしさやモヤモヤを抱えることは大事なことなのかも知れないと思います。もやもやを通らされながら、葛藤を通らされながら、イエス様の大切な御声を聞くことができるのではないかと思うのです。本日のユダヤ人たちもそのような歩みに招かれていたのではないでしょうか。彼らはイエス様に反発し、最後は十字架につけてしまうのですが、そんな彼らも本来はイエス様に招かれていたのだと思います。彼らはイエス様とのやり取りを通して、何かを感じ取っていました。それゆえに「もやもやした思い」を抱いていたのです。彼らがもう少し丁寧にイエス様との関係を築くことができたら、きっと関わり方が違ったものとなっていたのではないでしょうか。色々なもどかしさを経験しながら、その先に本当に大切な主の御言葉に出会うことができたのだと思います。そして、そのもどかしさの先にある本当の平和、平安に生かされていくことができたのだと思います。

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