本日のローズンゲンの御言葉です。

「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」列王記上8:27

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」ヨハネ4:23

私の父が以前、こんな話をしてくれました。父がアフリカで仕事をしていた時のことです。日曜日の朝、海岸を散歩していたところ、幾人かの人がやってきました。「何をしているんだろう」と思っていたところ、砂浜に木の枝で枠を描き始まりました。やがて、そこに色々な人が集まってきました。さらに綺麗な衣服をした人たちがやってきました。どうやら、その人たちは聖歌隊のようでした。そして、最後に牧師らしき人がやってきて、そこで礼拝が始まったのです。その人たちにとっては、その日の「教会」は、砂浜に木の枝で描いた枠でした。「世界にはそんな教会があるんだよ」と教えてくれたことが忘れられません。「教会って何だろう」「礼拝って何だろう」ということについて考える時、いつも思い出す話です。教会とは立派な建物を指すのではありません。礼拝も、そのような立派な建物の中で献げるものを指すのでもありません。その話を思い出す時、いつもそのことを思うのです。

ミャンマーでクーデターが起こった時のことです。ある動画を見せていただきました。国軍に追われ、住む場所を失い、森の中に逃げ込んでいた人たちが、岩陰の中で聖書を分かち合い、賛美を分かち合っていた動画でした。クーデターの只中で、まともに寝る場所もなく、休める場所もない様子を見て、深く心を痛めました。同時に、そのような状況の中、礼拝を献げている姿に深く心を打たれました。この時も、「教会って何だろう」「礼拝って何だろう」ということに考えさせられました。

 教会って何でしょうか。礼拝って何でしょうか。現在、私たちの教会では、信仰告白について話し合っていますが、ぜひ、この機会にこのことについて考える時を持てたらと思っています。

本日の箇所には、次のように記されています。

「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。」

本日の御言葉を読みながら、改めて、「まことの礼拝って何だろう」ということを思いました。そんな中、父から聞いた話やミャンマーでの礼拝について思い浮かべました。本日の箇所には「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」とあります。そんな中、「礼拝って何だろう」ということを考える時に「霊と真理をもって父を礼拝する」ということが問われているんだなと思いました。そんな中、どんな形であれ、どんな状況であれ、何より「霊と真理をもって父を礼拝する」ことができたらと思わされました。

鈴木牧人

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »