「この世の光を見つめながら」
ヨハネによる福音書11章1-16節
イエス様は、本日の箇所で弟子たちに「昼のうちに歩けば、つまずくことはない」(11:9)と言われました。この時、イエス様や弟子たちは大変危険な状況に置かれていました。本日の箇所には、イエス様と弟子たちのやり取りで、イエス様が弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう。」(11:7)と語ったところ、弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」(11:8)と言いました。弟子たちが言う通り、イエス様はユダヤ人指導者たちに命を狙われていたので、もしユダヤ人たちに見つかってしまったら、どんなことになってしまうか分かりませんでした。そういう状況の中で、イエス様が言われたのが、11:9の御言葉にある「昼のうちに歩けば、つまずくことはない」という言葉でした。ユダヤ地方のベタミヤ村に行くことは、危険が伴うことだけれど、「大丈夫。つまずくことはないよ」とイエス様は言われたのです。
ただここで考えさせられることがあります。それは「昼のうちに歩く」ということについてです。イエス様は本日の箇所で「昼のうちに歩けば、つまずくことはない」と言われましたが、「昼のうちに歩く」ということはどういうことでしょうか。本日の箇所には印象的な事柄があります。それはイエス様がマルタ、マリアから「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」との知らせを聞いた時、すぐにベタニヤ村に出発されることをなさらなかったということです。イエス様は「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在され」(11:6)ました。本当はそんなにゆっくりしていられなかったのではないでしょうか。でも、イエス様はそうされませんでした。なぜでしょうか。色々なことが考えられるかも知れませんが、何より思うのは、イエス様は、神様の声に聞き従おうとする中で、「今はその時ではない」と判断されたということです。
「昼のうちに歩く」ということ、「この世の光を見る」ということと、このイエス様の行動は繋がっているのだと思います。イエス様にとって、マルタもマリアもラザロも特別な存在でしたから、本当でしたら、マルタやマリアからラザロの病気の知らせを聞いて、すぐにでも駆け付けたかったかも知れません。しかし、そういう思いを抱えつつも、神様の御旨、御計画、神様の時に思いを向けながら、その御旨に適う方向を選び取っていこうとしたのです。
「神様の声に聞き従う」ということを考えます時に、何より思うことがあります。それは、神様に信頼し、期待するということです。本日の箇所もそうだと思います。イエス様がラザロの病気の知らせを聞いた後、二日間、そこに滞在されることにしたのは、神様が善いことを成してくださると期待したからでした。そのことのゆえに、マルタやマリアの思いもよくよく受け止めつつ、留まるほうがよいと考え、そこに留まったのです。
この後、弟子たちはラザロの復活の出来事を目撃していくことになります。彼らはそのことを通して、神様の御業の目撃者になっていきました。そのことに先立って、彼らがイエス様に従い、「神様の声」に聞き従っていったことを覚えていきたいと思います。
