「その石を取りのけなさい」
ヨハネによる福音書11章38-44節
ラザロの死に、マルタ、マリアは悲しみに暮れていました。イエス様も彼女たちと同様に悲しみながら、涙を流されました。その様子に、人々は「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」(11:36)と言いました。イエス様の様子を見ているだけで、人々はどれほど、イエス様がラザロを愛しているのか、悟ったのでした。しかし、その一方で彼らは「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(11:37)と言いました。どれだけ、イエス様がラザロを愛していたところで、ラザロを死なないようにすることはできなかったんだということに溜息をついたのです。そんな人々の姿が心に迫ってきます。私たちも同じようにイエス様を見上げていることがないでしょうか。イエス様が素晴らしい方、愛の方であることは知っています。その姿に感動もしています。ですが、その一方で、私たちでイエス様の限界を決めつけて、「だけど」と考えているのです。結果、どれだけイエス様が私たちのことを愛してくださっていたとしても、それが意味ないことのように思えてしまっているのです。結果、イエス様に対して、体重をかけて向き合えなかったり、イエス様を信じることが現実を生きる喜びや力にならないのです。イエス様はそんな人々をご覧になり、憤りを覚えられました。そして、言われたのが「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(11:40)という御言葉でした。
本日の記述を読みながら、マルタの姿が心に留まります。11::21-27には、イエス様とマルタのやり取りが記されています。ここでイエス様はマルタに対して、「あなたの兄弟は復活する」と言われました。それに対して、マルタは最初「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。ですが、イエス様は「そういうことを言っているのではないんだ」というふうにおっしゃり、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」と言いました。すると、これに対し、マルタは「はい」と答えたのです。そんなやり取りがあったのにも関わらず、本日の箇所で、イエス様がマルタに「その石を取りのけなさい」(11:39)と言われると、そのことに躊躇してしまいます。せっかくマルタはイエス様から「信じるか」と言われ、「はい」と答えたのに、あのやり取りは一体何だったのだろうかと思ってしまいます。
マルタが「その石を取りのけなさい」との言葉を躊躇したのは、石の向こうには、変わり果てた姿のラザロがいると思ったからでした。実際には石の先に何があるのか見てもないのに「こうだ」と決めつけていたのです。そんなマルタのことを思う時に、この「石」というのはマルタの中にある「信じられない心」を象徴しているのではないかと思います。「その石を取りのけなさい」と言われても、自分の中で「こうだ」と決めつけた思いがあって、イエス様の言葉に従うことができないのです。そんな堅く、重く、大きな石がマルタの心を塞いでいるのです。その石を取りのけない限り、彼女の思いは変わらなかったのでした。私たちのうちにも同じような「石」があるかも知れないと思います。
