「主の御旨のみが実現する」

ヨハネによる福音書11章45-57節

イエス様がラザロを復活させてくださったという知らせは、ファリサイ派の人々に届き、最高法院が招集されることになります。その中でイエス様について「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか」(11:47)ということが話し合われることになりました。彼らの中には、イエス様を受け入れられないという思いと、心のどこかで引っ掛かっている思いと様々な思いが錯綜としていたのだと思います。ただ、そういうふうに揺れている思いと同時に、のしかかる不安や恐れがありました。そういう状況の中で、大祭司カイアファは「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49-50)と言いました。ある本に、この時、カイアファが語った「好都合」という言葉に注目すべきだと書かれていました。「カイアファは至極当然のようにそんなふうに語っているけれど、本当にそれでいいのか」というのです。そこに正しいことは何か、本当のことは何か、神様の御心に適っているのは何かという観点はありません。自分たちにとって得なのはどちらなのかというふうにしか考えていないのです。私はこの本の言葉にハッとさせられました。このカイアファの言葉を聞いて、人々は「確かにそうだ」と流されてしまいました。しかし、その結果、彼らは決定的な過ちを犯してしまうのです。そんな彼らを思う時、こういう失敗を、これまで彼らは何度も犯してきたんじゃないかと思ってしまいます。たとえば、イスラエルの国は、バビロニアに滅ぼされるという歴史を経験してきました。その時もそうだったのだと思います。この時、イスラエルの国は大きな二つの大国のはざまに置かれ、そのはざまで「どうすればよいのか」という状況に立たされました。神様はそんな彼らに、様々な預言者を遣わします。しかし、人々はその言葉には耳を傾けず、目先の得ばかりを求めました。結果、失敗ばかりを繰り返し、国は滅びへと向かってしまうのです。そんなイスラエルの姿が、私は他人事ではないと申しますか、自分自身に問われているように思います。目先の「得」ばかりに目を奪われ、右往左往しながら、失敗してしまうということがないかと思うのです。未だにそんな私たちがいるように思います。ですが、本日の箇所を読みながら思うのは、そんなふうに右往左往している私たちの思いを越えて、神様の御心、神様の救いはなされていくんだということです。カイアファの言葉は、自分たちの「得」のことしか考えていない言葉でしたが、奇しくもその言葉はカイアファの思いを越えて、神様の御計画に用いられていきました。人間の身勝手な思惑を越えて、神様の救いの御業はなされていったのです。
私たちが「どうすればよいのか」と思いあぐねる中、「どちらが好都合か」と考えることは決して間違いではありません。それは当然のことです。ただ、そこで抜け落ちてしまっていることがあります。それは私たちにとって最も善いこと、最も益であることを神様がご存じだということです。最終的に成就していく確かな事柄は、神様だけがご存じなのです。そのことにまず、信頼し、その神様の声に聞こうとしていくことが大事なのだと思います

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