「命の香り」
ヨハネによる福音書12章1-8節
本日の箇所はベタニヤ村での夕食の記述です。そこにイエス様のための食事が用意されましたす。その食事にラザロも同席していました。ラザロは、ヨハネ11章でイエス様によって復活させられた人物です。マルタとマリアの兄弟ラザロが生き返ったという知らせは、村全体の喜びでした。人々は食卓の真ん中にいるイエス様とラザロを見ながら、神様の恵み、憐れみ、そして、神様の偉大さをひしひしと感じていたのではないでしょうか。そんな食事をしている最中、これまで給仕をしていたマリアがイエス様に近づき、イエス様の足に香油を注ぎかけたのでした。この香油は「ナルドの香油」という大変高価な香油でした。本日の箇所には「この香油を三百デナリオンで売って」(12:5)と書かれています。一デナリオンは当時の日雇い労働者の一日分の給料でしたからおよそ一年分の給料です。マリアはイエス様への喜びと感謝の中で、そのようにしたのだと思います。考えてみたいと思います。マリアは愛する弟ラザロが生き返ったことへの喜び、感謝に溢れていたのです。その喜び、感謝の思いから、ナルドの香油を献げることなど惜しいとは思わなかったのではないでしょうか。言葉には表せない喜び、感謝に溢れながら、損得勘定を抜きにして、自分の持てる最良のもの、精一杯のものをイエス様に献げようとしたのだと思います。
私たちは時に贈り物そのものが嬉しいというより、贈ってくれるものを通して、相手の思いがひしひしと伝わってきて、それが嬉しいと思うことがあります。本日の「ナルドの香油」の出来事もそうなのではないでしょうか。もちろん、ナルドの香油自体、貴重なものでした。しかしながら、この香油を献げたマリアのことを思います時に、それ以上に素晴らしいなと思うのは、この香油を献げたマリアの思いです。それは「ナルドの香油」に優る香りを放っていたのだと思います。イエス様は何より、そのマリアの思いを受け止めておられたのだと思いますし、そのことを喜んでくださっていたのだと思うのです。
聖書には、マリアのように、イエス様に対して、神様に対して、自分の持てるものを献げていった人たちの話が記されています。たとえば、思い浮かべますのは、五つのパンと二匹の魚を献げた少年の姿です(ヨハネ6章)。その他にも、ルカ21章には、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献げたという記述が記されています。「パン五つと魚二匹」にしても、「レプトン銅貨二枚」にしても、本日のナルドの香油と比べて、価値としては比べられないほど、劣っているかも知れません。しかしながら、五つのパンと二匹の魚を献げた少年にしても、レプトン銅貨二枚を献げたやもめにしても、献げる者の思いというのは、本日のマリアと同じだったのだと思います。イエス様に対して、神様に対して、心からの喜びや感謝でもって、自分の持てる精一杯を献げていたのだと思います。そのような意味では同じだったのだと思うのです。何より大切なのは、そのようなことなのだと思います。私たちが私たちなりの思いでそれぞれに喜びと感謝の思いで、イエス様に持てるものを献げようとしていく時、イエス様はその思いを受け取り、喜んでくださるのです。
