「平和をはばむもの」

ヨハネによる福音書12章9-11節

《イエス様やラザロを殺そうとする祭司長たち》

本日の箇所は、ラザロ復活の出来事の後の記述です。祭司長たちはラザロ復活の知らせを聞き、イエス様と殺そうとするだけでなく、ラザロまでも殺そうと考えたのでした。祭司長たちは何故そうまでしようと考えたのでしょうか。それほどまでにイエス様を憎んでいたのでしょうか。色々な思いがあったのではないかと思います。しかし、彼らの中から何より感じるのは、イエス様に対する危機感や恐れです。祭司長たちは「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」(11:48)と考えていました。そのように、イエス様のことをこのままにしていたら、どうなってしまうか分からない…。これまで自分たちが積み上げてきたこと、「こうだ」と主張してきたことが皆、変わってしまうかも知れない、ひっくり返ってしまうかも知れない、そういう危機感、恐れを感じていたのです。そのような思いから「イエス様を殺さないといけない」という思いに駆り立てられていったのでした。

《平和をはばむもの》

本日の平和祈念礼拝を献げるにあたって、祭司長たちの姿が心に迫ってきました。この祭司長たちのような思いが、私たちの心を平和へと向かわせることから阻んでしますということはないでしょうか。相手を受け入れることで、私たちが変わってしまう、変えられてしまうことを感じてしまう時、そのことに対して危機感を感じ、恐れや不安を覚えるのです。そして、その思いが平和に向かおうとする思いを阻んでしまうことはないでしょうか。
私たちが自分とは異なる相手と出会い、その相手と関係を築こうとしていく時、そういう課題に向き合わされることがあるのだと思います。相手を受け入れようとする中で、それまでのようにはいられなくなって、やり方だったり、考え方というものを変えていかなければならなくなることがあります。それは私たちにとって大きなチャレンジです。戸惑うこともあれば、違和感や反発を覚えることもあるのだと思います。そういう時、どうするでしょう。自分たちの思いや考えに固執するでしょうか。それとも、立ち止まり、改めて考え直し、それまでの自分の考えを変えようとしていくでしょうか。私は自分自身を振り返る時、両方の経験があったなと思います。自分とは違う考え、価値観を向き合わされ、自分の中で受け入れられなくて、頑なになり、意固地になったこともあれば、最初は、戸惑いながらも、その後、よくよく考えさせられながら、自分自身の考えを改めさせられたりしたこともありました。そんな経験を振り返りながら思います。自分の中には自分なりにこれまで積み上げてきたものがあり、大事にしているものがあり、変えたくないと思うものがあります。しかしながら、そういうものがあるがゆえに、分からなくなっているもの、見えなくなっているものもあるのだと思います。いずれにしても、そんな自分のことを振り返りながら、本日の祭司長たちの姿が心に迫ってきました。


《『出会い』という祝福》

私たちは「変えられていく」という過程の中で、私たちは「どちらが正しい」とか「間違っている」という構図を作り出してしまうことがあります。あるいは「こっちは分かっている」「あっちは分かっていない」という構図を作り出すこともあります。そういうふうになってしまって、お互いに壁が生まれ、相手の言葉に聞こうとすることができなくなってしまうことがあります。せっかく、その出会いを通して、お互いに新しくされていくチャンスなのに、そういうことが阻まれてしまうのです。私たちは新たな出会いを通して、その都度、お互いにその都度、大切な気づきが与えられ、よりよい方向に成長していくことができたらと願います。そのためにも、丁寧に事柄を分かちあいながら、理解しあい、そのことを通して、お互いに新しく創り変えられていったらと思うのです。そうすることを喜びあうことができたらと思うのです。ですが、中々そうできず、お互いの違いが分断や隔てを生んでしまうことがあります。お互いに頑なになって、ぶつかりあってしまうことがあります。そういうことが、私たちの間に平和を実現しようとすることを阻もうしていることがあるんじゃないかと思います。
私たちにとって、自分と異なる相手と出会い、その相手と関係を築こうとしていくことを通して、私たちが変えられていくということは、私たちにとって、大きなチャレンジです。誰しも戸惑いや迷いを経験するのだと思います。そうすることの難しさを突きつけられることがあったりもします。しかし、それは大切なことであり、本来は祝福の事柄なんだということを覚えていたいと思います。私たちが、その新たな出会いを通して、私たちがそれまで分からなかった、知らなかったものに気づかされるとするなら、そのことを通して、私たちが新たにされていくことができるとするなら、それは祝福なのです。

《覆いを取り去られて》

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)
この御言葉にありますように、私たちの内には、しばしば大切なものを見えなくさせていく「心の覆い」があります。その覆いに心の眼差しが阻まれてしまっているのです。Ⅱコリントの御言葉は、主の方に向き直れば、その覆いは取り除かれていくんだと語っています。そうすることで、私たちは主によって、その都度、新しくされ、造りかえられるのです。平和に生かされていくという時に、こういうプロセスを経験することがあるのではないでしょうか。私たちの中にある「自分の思いや考えに凝り固まろうとしてしまう思い」や「違いを認められない思い」が主に向き直ることによって取り扱われ、心の覆いが取り去られるような経験をしながら、主の愛と赦しの中で、取り扱われ、導かれ、主にある自由、豊かさを学び、新しく造りかえられていくのです。そのような経験を通らされながら、私たちは主にある平和へと導かれていくのではないでしょうか。

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