「恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる」
ヨハネ12:12-19
昔話などを読みますと、「めでたし、めでたし」と言って物語が締めくくられることがあります。ですが、現実の歩みではそんなふうには中々いきません。一つの節目として、「良かった、良かった」と思うことはあるかも知れません。ですが、そこからも歩みは続いているのです。ともすると、それまで良かったとしても、大きな壁を乗り越えた後に、小さな石に躓いてしまうことだってあるんだと思います。本日の箇所を読みながら、そのようなことを思います。
本日の箇所は、いわゆる「エルサレム入城」と呼ばれる箇所です。旧約聖書には、様々な預言者たちを通して、やがて、来たるべき時、救い主、メシアが遣わされるということが約束されていました。イスラエルの人々にとって、それは待ち望んでいたことでした。そんな中、旧約聖書に書かれていた通りに救い主がおいでになったのです。この情景を思い浮かべる時、湧き上がってくるのが「めでたし、めでたし」という言葉です。これまで、イスラエルの人々が待ち望んでいた約束がようやく実現したのです。ですが、この箇所を読んでそんなふうに思う人はいないのだと思います。なぜなら、その後、状況は一変してしまうからです。本日の箇所で「ホサナ、ホサナ」と言っていた人々は、その数日後、イエス様に対して「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶようになっていくのです。その状況を思います時、本日の箇所を読んで、良かったなと思うと同時に、「何で、こういう状況からあんなふうになってしまうのかな」と思ってしまいます。そして、こういうことって、私たちの歩みにもあるんじゃないかと思います。
本日の箇所を読みながら、一つ、思うことがあります。エルサレムの町の人たちがイエス様を喜び、迎え入れている時、それを苦々しい思いで見ていた人たちがいました。ファリサイ派の人たちでした。彼らはエルサレムの人たちを何とか、イエス様から引き離そうと考えていました。ですが、この時の状況を見て、「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(12:19)と語ったのでした。何というのでしょう。もし、エルサレムの人たちが、この状況に留まっていることができたら、状況は変わったのではないかと思います。ファリサイ派の人たちに流され、イエス様を十字架につけようとすることなどなかったかも知れないと思うのです。
そのように、本日のエルサレムの町の人たちの姿から様々なことを思います。私たちは本日のエルサレムの町の人たちのように、せっかくイエス様を心にお迎えしていたはずなのに、心がいつの間にか、おかしな方向に迷い出てしまいそうになったりすることがあるのではないでしょうか。そんな私たちを思いながら、改めて、エルサレムの町の人たちのように、主を喜び、賛美することができたらと思いました。そこに留まっていけたらと思うのです。その時、迷ったり、悩んだりしている私たちがいるかも知れませんが、そういう私たちが、その都度、立ち戻らされ、一つところに立っていくことができるのだと思うのです。
