「一粒の麦が落ちなければ」

ヨハネによる福音書12章20-26節

本日の箇所は、イエス様のもとに数名のギリシア人たちがやって来たという記述です。このギリシア人は、過ぎ越しの祭りに参加するため、外国から来た人たちでした。フィリポとアンデレはこのことをイエス様に伝えに行くと、イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(12:23-24)とお答えになりました。この「一粒の麦は、地に落ちて死ぬ」という言葉に注目したいと思います。一粒の麦が地に落ちてしまう…。それは麦としての形を損ね、死んでしまうような状況かも知れません。ですが、その後、麦は新たに根を生やし、成長し、多くの麦を結ばせていくことになるのです。この出来事は明らかにイエス・キリストの十字架の死と復活を指していました。イエス様はまさに、私たちを生かすため、私たちに命を与えるため、自ら一粒の麦となって死なれたのです。
ですが、この「一粒の麦」を通して現わされる「栄光」というものについてよくよく考えていきたいと思います。何というのでしょう。この「栄光」というのは、私たちが「今のことだけ」「自分のことだけ」「目先のことだけ」を見ていたら、見ることができないことなのだと思います。もし、私たちが「今のことだけ」「自分のことだけ」「目先のことだけ」を見てばかりいたら、一粒の麦が落ちてしまわないよう、必死に守ろうとするのではないでしょうか。その麦が落ちてしまったとするなら、「もうお終いだ」と、うなだれてしまうかも知れません。しかし、一粒の麦の「栄光」の業は、そこから始まるのです。
イエス様は、そのような「一粒の麦」を通して現わされる「栄光」をお話になりました。イエス様は、そのように「自分のことだけ」「今のことだけ」「目先のことだけ」に思いが向かおうとしてしまう私たちを、それだけではない世界に目を向けさせていくのです。何より、「希望に生きる」ということ、「目には見えないものを信じる」ということ、「自分だけではなく愛に生きる」ということはそういうことなのだと思います。私たちが「自分のことだけ」「今のことだけ」「目先のことだけ」にだけ思いが向かっているとするなら、私たちはそれらのものを見つめることができません。イエス様は、そういう私たちの眼差しを取り扱い、変えてくださるのです。
日常の歩みを振り返ってみる時に思います。ともすると、すぐに色々なことを自分たちだけで抱え込みながら、「さて、どうしたものか」と迷ったり、悩んだりしてしまっていることがあります。結果、「自分のことだけ」「今のことだけ」「目先のことだけ」の方向に眼差しがすぐに向かおうとしてしまっていることがあります。そんな私たちが、イエス様との出会いを通して、取り扱われ、「それだけではないものを見つめる眼差し」に生かされていくことができたらと思います。もっと豊かなものを見つめる眼差しに、「希望に生きる」という光、「信じる」という光、「愛に生きる」という光を見つめる眼差しに生かされていくことができたらと思うのです。

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