「真理の霊」

ヨハネによる福音書14:15-21

イザヤ44:22には「わたしはあなたの背きを雲のように/罪を霧のように吹き払った」との御言葉があります。ここには「罪」が「霧」に例えられています。以前、大分教会の牧師就任式に参加した帰りの道中、高速道路が霧に包まれたことがありました。私はあんなに濃い霧の中を運転するのが初めてでしたので、本当に戸惑いました。数メートル先が霧で見えなくなり、不安や恐れを抱えたまま、運転したことを覚えています。あの時の霧が私たちの視界を遮っていたように、罪というのは、私たちの心の視界を遮るのだなと思いました。

本日箇所で、イエス様は、聖霊についてお話をされました。しかし、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」(14:16)と言われました。せっかく聖霊が遣わされたとしても、この世の人々は、それが分からないし、受け入れることができないというのです。この言葉を読みながら、イザヤ44:22の「霧」と「罪」の話を思い出します。まさに私たちのまなざしが「霧」のような「罪」に阻まれてしまって、分からなくなってしまっている状況があるのではないでしょうか。

ヨハネによる福音書には、「罪」により、視界が阻まれ、大切なものが見えなくなっている人々の様子が度々、記されています。ヨハネ9:39-41には、イエス様とファリサイ派の人々とのやり取りが記されています。ここでファリサイ派の人々は、イエス様に対し、「我々も見えないということか」と訴えています(ヨハネ9:40)。ファリサイ派の人々としては、「そんなことない。自分たちにはちゃんと見えている」という思いで、このようにイエス様に訴えたのでした。それに対して、イエス様は「あなたたちが『見える』と言うなら、あなたたちの罪の問題は解決されないまま、残り続けるよ」とお話しなりました。ここにも、「罪」によって、視界が阻まれ、大切なものが見えなくなっている人々が記されています。そして、人々はそのことさえ分かっていない…。「自分たちにはちゃんと見えている」と思っているのです。

そんなファリサイ派の人たちの姿を見ながら、私たちはどうだろうかと思います。私たちも、このファリサイ派の人々のようになっていることはないでしょうか。たとえば、「自分は正しい」「自分は分かっている」という思いになっている時、私たちはその前提として「自分には見えている」という思いがあるのではないでしょうか。自分の中に足りなさや考えの至らなさがあるということを重々認識しているはずなのですが、その時はそういうことに目を向けることができなくなっていて、心に「霧」がかかってしまっているのです。ともすると、そういうふうになってしまうことがあるのではないでしょうか。そのように、私たちの内には「罪」があって、その「罪」は私たちの心を「霧」のように塞ぎ、大切なものが見えなくなってしまうことがあります。

そんな中、私たちのために、神様は聖霊を遣わしてくださいました。私たちが聖霊を知り、受け入れていく時、この聖霊を通して、真理を知ることができるのです。「霧」が晴れていくように、それまで気づかなかったこと、分からなかったことを知らされていくのです。そのことを通して、自分の過ちや検討違いを知らされていきますが、何より知るのは神様の愛と恵みです。

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