本日のローズンゲンの御言葉です。

「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」創世記28:15

「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」ルカ22:35

本日の箇所には、次のように記されています。

「そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」

この箇所は、イエス様が十字架につけられた時の箇所です。イエス様が十字架につけられた時、傍らには二人の犯罪人がいました。ある牧師が「この二人の犯罪人は私たち自身の姿そのものなんだ」と語りました。「私たちは、信仰を持つとか、イエス様を信じる、信じないに関わらず、背負わされるものがある。二人の犯罪人のように『それぞれの十字架』に向き合わされるんだ」

確かにそうかも知れません。私たちはどんな人でも、それぞれの歩みの中で、それぞれの課題、重荷に向き合わされることがあります。それらの問題に向き合わされながら、私たちはどんなふうに歩んでいるでしょう。二人の犯罪人の対応は対照的でした。一人の犯罪人は、十字架の渦中で、怒りの矛先をイエス様に向け、悪態ばかりをついていました。

「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』」(ルカ23:39)

この犯罪人は、向き合うべきものに向き合えず、周りの人に問題の責任転嫁をして、恨んだり、怒ったり、呟いたり、裁いたりしていました。この人には、何の救いも希望も見えませんでした。これに対して、同じ十字架の重荷を背負いながらも、全く違うように受け止める人もいました。

「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』」(ルカ23:40-41)

この犯罪人は「我々は、自分のやったことの報いを受けている」と告白し、十字架を「自分が向き合うべきもの」とわきまえていました。ですが、やはり、苦しかったですし、救いを求めていました。そんな中、イエス様に「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と憐れみを求めたのです。それが本日の御言葉です。すると、その犯罪人に対して、イエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。ここに、私たちが招かれている救いがあります。人には誰しも負うている重荷があります。その重荷は時にしんどいですし、放り出したくなることもあります。やりきれない思いを誰かにぶつけたくなることがあります。ですが、その中でイエス様との出会いながら、主を見上げ、主に助けと憐れみを求めていけたらと思います。その時、聞こえてくるメッセージがあり、イエス様との出会いの中で見えてくる景色があるのです。                                              

鈴木牧人

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