本日のローズンゲンの御言葉です。
「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」列王記上19:11-12
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ヨハネ1:18
少し前、NHKの番組で俳優の加賀まりこさんがこんな話をしていました。戦後から20年近く経った東京オリンピックの頃のエピソードとして、当時は日本中が建設ラッシュで、町中活気づいていました。ですが、その反面、言葉にならない渇きがあったそうです。加賀さんはそんな状況に違和感を覚え、日本を飛び出したそうです。当時の状況について、こんなふうに語っていました。
「あの時代というのは、みんながみんな上ばかり見ていた時代だったように思う。みんなどこか浮足立って、大切な足もとを見失っているんじゃないか」
忘れられない出来事があるそうです。東京オリンピックのマラソンで金メダルを取ったアベベ選手にインタビュ−の人が「日本から何を持ち帰りたいですか」と尋ねました。すると、アベベ選手が「蛇口を持って帰りたい」と答えたそうです。「自分たち日本人には、みんな当たり前のように家には蛇口がある。それが当たり前のことではないんだと思った」とおっしゃっていました。
本日の箇所には、次のように記されています。
「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」
ここには繰り返し、「そこに主はおられなかった」と記されています。この御言葉を読みながら、加賀さんの言葉を思い出しました。「みんながみんな上ばかりを見て、どこか浮足立ち、大切な足もとを見失っている」。そんな私たちというのは、「そこには主がおられないのに、そういうことばかり目を向けてしまう」ということがあるのではないかと思います。
エリヤは、最初、「激しい風」、「地震」、「火」に目を奪われてしまいます。ですが、そこには主がおられないということを悟りました。その後、エリヤは静かにささやく「声」に出会います。その「声」を通して、エリヤは主に出会っていくのです。私たちもそういう経験をさせられることがあるのだと思います。上ばかり見ている時には、浮足立ち、大事な足もとを見失い、肝心な「声」にも耳を傾けることができなくなっているのですが、そういう私たちが立ち止まり、砕かれ、耳を傾ける時に、真実の主の御声を聞くことができるということがあるのです。今の時代、そのような主との出会いが大事なのではないでしょうか。
鈴木牧人
