「罪について、義について、裁きについて」
ヨハネ16:8-15
本日の箇所でイエス様は「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」(16:8)と言われました。「その方」とは、聖霊なる神を指しています。聖霊は、この世が語っているような、考えているような「罪」「義しさ」「裁き」は誤りであることを、私たちに明らかにしてくださるというのです。聖書の時代、人々の中には、彼らなりの「罪」や「義しさ」や「裁き」がありました。たとえば、律法学者たちや、ファリサイ派の人たちの「義しさ」と言えば、律法に基づいた「義しさ」でした。その「義しさ」自体は間違っていなかったかも知れません。ですが、彼らは、そのような「義しさ」を主張する中で、この世の人たちと自分たちとの間に線を引いていました。そして、人々を罪人として裁いたりしていたのです。そんなふうに、人々はそれぞれ、自分たちの考える「罪」や「義しさ」、「裁き」を持っていました。そのような状況に対し、聖霊はそれらの誤りを明らかにしてくださるんだと言われたのです。
この言葉は私たちにも呼びかけられているのだと思います。私たちもそれぞれ、自分たちの考える「罪」だったり、「義しさ」だったり、「裁き」があるのではないでしょうか。それというのはある意味、正しいものかも知れません。ですが、その一方で、ファリサイ派の人たちのように肝心なことが見えていないということがないでしょうか。本来、私たちが本当の意味で「罪」を知り、「義しさ」を知り、「裁き」を知るなら、そのことは、私たちを砕き、私たちの思いを神様に立ち帰らせていくのだと思います。そうすることの先に、私たちは神様の祝福、神様の平和に導かれていくのだと思います。しかし、どうでしょう。私たちは時に「罪」を語り、「義しさ」を語り、「裁き」を語れば語るほど、心が頑なになったり、傲慢になったりしてしまうことがあります。自分の義しさを振りかざして、誰かを非難したり、裁いたり、蔑んだり、見下してしまうということがあるのではないかと思います。そんな私たちは、時に肝心なことを見落としていたりするのではないでしょうか。
イエス様は本日の箇所で「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(16:9)と言われました。この御言葉を読みながら、何より思うのは、私たちが罪について考えたり、語る時に、まず大切にしたいのは「イエス様を信じることから始める」ことではないだろうかということでした。そこから始めないと、罪についてのとらえ方がどこかおかしな方向に向かっていってしまうのだと思います。罪について語る度に、自分を責めたり、誰かを裁いたりしてばかりしてしまうんじゃないかと思います。そんな私たちがイエス様のことを信じることから始めていく時、何より大切なことが見えてくるのではないでしょうか。何より、そのようにイエス様を信じることから始めていく時、私たちは何より自分自身に砕かれていくのだと思いますし、神様に立ち帰らされ、神様の祝福、神様の平和に導かれていくのだと思います。そして、何より罪について考えれば考えるほど、私たちは「イエス様から離れちゃダメだ」という思いに導かれていくのだと思います。
