本日のローズンゲンの御言葉です。
「主よ、わたしは知っています。人はその道を定めえず/歩みながら、足取りを確かめることもできません。」エレミヤ10:23
「『こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」ルカ12:19-20
本日の箇所には次のように記されています。
「『こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
一人の金持ちがいました。この人の所有していた畑が豊作になりました。有り余るほどの作物を得た金持ちは、その作物を蓄えるための蔵を作ることにします。そして、「これだけあれば、しばらくは苦労もせずに生活できる」と考えたのでした。まさに順風満帆でした。ですが、そんな金持ちに神様の言葉が告げられます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」。こうして、この金持ちは、せっかく、有り余る富を得たにも関わらず、その日の内に命を落とし、亡くなってしまうのです。
本日の箇所で印象的なのは、金持ちが語った「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」という言葉です。この「ひと休みして」という言葉は、「休ませる、休養させる」という意味があります。別の聖書の訳では「安心して」という言葉で訳されています。今まで背負ってきたものをようやく下ろして楽になって、心から安心できるというような意味の言葉です。金持ちは、この大豊作を通じて、ようやくそうなれると願ったのでした。その背景には、「これまでは中々そんな思いになれなかった」状況があったのかも知れません。これまでの人生の中、たえず、心配事や煩い事が絶えなかったような人生を歩んできたではないでしょうか。そんな中、ようやく先行きが見通せるだけの蓄えができたので、安心して、一休みできると考えたのです。そして、そのような「休み」というものを、私たちは求めているのではないでしょうか
改めて、この「ひと休みして」という言葉に注目したいと思います。実は、この言葉と同じ言葉が使われている聖書の箇所があります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。ここでイエス様は、私たちを「休み」へと招かれました。この二つの御言葉を読む時、私たちにとっての「本当の休み」がどこにあるのか教えられます。金持ちは、何年も生きて行くだけの蓄えができれば、重荷を下ろし、安心して、休みが得られると考えていましたが、そうではありませんでした。この金持ちのように、私たちの人生には何が起こるか分からないということがあるのだと思います。そんな私たちをイエス様は招いてくださっています。そして、本当の休み、安心に私たちを生かしてくださるのです。たとえ現実では現在進行形の悩みがあったとしても、その中で私たちの重荷を取り去ってくださいます。イエス様が私たちの抱えきれないものを担ってくださるのです。
鈴木牧人
