「わたしは復活であり、命である」
ヨハネによる福音書11:17-27
本日の箇所には、イエス様たちが、ラザロが病気だということを聞きつけて、ベタニヤ村を訪れた時の様子が記されています。イエス様たちがベタニヤ村に到着した時には、ラザロはすでに亡くなり、墓に埋葬されてしまっていました。村全体が深い悲しみに包まれていました。改めて、死という出来事に向き合わされるということはそういうことだと思います。そして、その時に、そんなふうにきちんと悲しむこと、そして、きちんと泣くことは大事なことなんじゃないかと思います。時に葬儀などを行う時に経験することがあります。「葬儀の間、ちゃんとしなければ」と色々な思いに蓋をして、気丈に振舞おうとしてしまうことがあります。そんな中、きちんと悲しんだりすることができないでいることがあるのです。悲しい時に悲しみ、泣きたい時に泣くということは大切なことなのではないでしょうか。ただ、本日の箇所を読みながら、そこからさらに呼びかけられているメッセージがあるのだとも思います。私たちの招かれている信仰は、「悲しみが悲しみで終わらない」のです。イエス様は悲しみに暮れるマルタに対して、「あなたの兄弟は復活する」(11:23)と言われました。ここに私たちが招かれている希望が記されています。それは「復活の希望」です。私たちは、悲しみの中にあって、この「復活の希望」に招かれているのです。ただ、本日のこのやり取りについて注目したいと思います。ここで、イエス様はマルタに対し、「あなたの兄弟は復活する」と言われましたが、マルタはそれに対し、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えました。マルタは復活のメッセージを存じていました。しかし、そのメッセージがマルタにとっての喜びとなっていたでしょう。このやり取りを見ていく時、復活のことは聞いているし、知ってもいるのですが、どこか、実感が伴わない事柄…。そんなふうにマルタが受け止めていたんじゃないかと思ってしまいます。復活について耳にし、こういうものだということはそれなりに理解もしているのですが、本当の意味でそのことがマルタにとっての希望になっていたのだろうかと思うのです。単なる知識で終わってしまっていたのではないかと思うのです。そして、そんなマルタを見ながら、私たちにとっても、復活の希望がそんなふうになっていることはないだろうかと思います。ですが、イエス様が招いている復活の希望とは、そういうことではありません。話としては、知っているけれど、実際の現実とは遠い事柄のようなものではないのです。まさに、私たちの今を生きる力、励まし、支えとなっていくのが、イエス様が私たちを招いておられる希望のメッセージなのです。
ここでイエス様は「わたしは復活であり、命である」(11:25)と言われました。ある本に「ここでイエス様は、復活がイエス様自身に深く結びついていることを宣言されているんだ」と書かれていました。「復活はイエス様に結びついている」ということは、言い方を変えるなら、復活はイエス様抜きに語ることはできないということです。復活は、私たちがイエス様に出会うことを通して、イエス様に出会うことに先に、それに結びついて、私たちのものとなっていくのです。
