「心騒がせながら」
ヨハネによる福音書12章27-36節
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」(12:27)
ここで「心が騒ぐ」と訳されている言葉は、ギリシア語で「タラッソー」という言葉が使われています。「恐れ惑う」、「かき乱される」、「動揺する」という意味です。目の前の状況を思う時に、色々なことを考えたりする時に、とても冷静ではいられず、激しく心揺さぶられ、取り乱してしまいそうになる…。ともすると、不安や恐れに飲み込まれてしまいそうになるという様子が「タラッソー」という言葉を読む時に思い浮かべる姿です。
イエス様は、この時、いよいよ十字架へと向かおうとされていました。その時にイエス様は「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。十字架というものを目の前にしながら、イエス様の心は「タラッソー」という思いにさせられていました。とても冷静ではいられないような思い、激しく心揺さぶられ、取り乱してしまいそうになるような思い、ともすると、不安や恐れに飲み込まれてしまいそうな思いになられていたのです。私たちもそういう思いにさせられることがあるのではないでしょうか。そんなことを思いながら、12:27の御言葉が心に迫ってきました。ここで、イエス様は「今、わたしは心が騒ぐ」と言いながら、この時に私は「何と言おうか」と言われました。それが、「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」という言葉でした。「父よ、わたしをこの時から救ってください」とは、「目の前に迫っている十字架から私を救ってください」…。イエス様としては、本当はそのように言いたかったのです。心騒ぎながら、不安や恐れで一杯になりながら、この状況から何とか逃れたい、救われたいと願ったのです。ですが、イエス様は次のように続けます。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」。本当は不安や恐れで心騒ぎながら、ここから逃れたい…。救われたいと思われながら、同時に「しかし」というふうに言われました。私は「まさにこの時のために来たんだ」と思い直されているのです。このイエス様の姿について、ある本にこんなことが書かれていました。
「イエスでさえ、『わたしは心騒ぐ、不安だ』と言われることがある。そして、その不安から、救われたいと願うことがある。しかし、イエスはその不安の中にあって、神様の業を見上げていた。そして、栄光を見つめていた。」
色々なことを考えると、つい現実的なことばかりに心流され、そういうことばかりしか見えなくなってしまいそうになることがある中にあって、本日のイエス様のように、神様の御業、神様の栄光を見つめることができたらと思います。目の前のことばかりではなく、今この時も神様が共にいてくださっていること、神様がこの状況を取り扱ってくださっていること、その神様が御業をなしてくださることに信頼し、その神様の約束に目を向けながら、自分がなすべきことを定めていくことができたらと思います。
