「互いに足を洗い合いなさい」

ヨハネによる福音書13章1-15節

本日の箇所はイエス様が弟子たちの足を洗ったという記述です。イエス様は弟子たち一人一人の足を洗いながら、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13:14)と言われました。「足を洗う」とは、どういうことでしょう。まずは「赦し」ということから、この「足を洗う」ということについて考えることができるのではないでしょうか。足というのは、どれだけ綺麗にしたつもりでも、外に出て、普通の生活をしていれば、汚れてしまう部分です。それというのは、足の問題だけではないのだと思います。私たちの心の内側のことを考えてもそういうことがあるのだと思います。毎日の色々な出来事を経験する中、時に嫌な思いを通らされたり、感情的にさせられたりすることがあるのだと思います。そういう時に思わず、感情に流されて、心ないことを口にしてしまったり…。そうした後で、反省させられたり…。その時は分からずに、後から「何であんなことしたんだろう」というような失敗や間違いをしてしまったり…。そんなことがあるんじゃないかと思います。まさに、日々の生活の中で足を泥だらけにしているように、心もいつの間にか、汚れてしまっている…。そんな私たちにとって、イエス様に洗ってもらわなければならない部分があるのではないでしょうか。
加えて「仕える」ということから、この言葉について考えていきたいと思うのです。「足を洗う」ということは、当時の社会では奴隷がする仕事でした。特にイスラエル社会では、イスラエル人の奴隷にはさせず、異邦人の奴隷にだけさせた仕事でした。そんな仕事をイエス様がなさるなんて、弟子たちにしてみれば、本当にとんでもないこと、させてはいけないことだったのだと思います。いずれにしても、イエス様はもちろん、自分たちだって、そんなことする必要なんかないし、しなくてはいけない理由なんて、これっぽっちもないことが「足を洗う」という仕事でした。しかし、そのような仕事を、イエス様は自らが行ない、「あなたたちも互いに足を洗い合わなければならない」と言われたのでした。ここでイエス様は、弟子たちに「仕える」こと、「仕え合う」ことを教えられたのです。
さらに足を洗うためにその人の足に触れるということについて、そうすることで、全身が呼び起こされるということがあるんじゃないかと思います。私たちは時に日々のわずらいごと、なやみごと、不安や恐れ、そういうものに心奪われ、ぼやけてしまったり、見失いそうになってしまうことがあるかも知れません。そういう私たちに、イエス様は触れてくださるのです。愛をもって触れてくださるのです。その経験をした私たちは、それだけで失ってしまっていたものを呼び覚まされていくのです。本来の自分を取り戻すことができるのです。イエス様とそういう出会いをすることができたらと思います。御言葉が、十字架が、復活が私自身のこととして迫ってくる時、私たちはそういう出会いを経験することができます。その出会いは私たちを目覚めさせるのです。同時に、そんな私たちが愛をもって互いに交わる時、お互いに愛に触れながら、イエス様の愛を思い出していくということがあるのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »