「僕は主人にまさらない」
ヨハネによる福音書13章16-20節
年の瀬も近づき、何かと慌ただしく過ごしている時期です。そんな中、心騒がしくなると、ふと思い出す言葉があります。先輩牧師の言葉です。
「自分は牧師として色々と失敗してきた。振り返ってみて、反省させられることが色々あるけれど、何より思うのは、『イエス様よりも自分が先に出てしまっていたんじゃないか』ということなんだよね。本当はイエス様が私たちに先立ってくださるべきなのに、そういうことを見失って、『自分が』『自分が』というふうに自分が前に出てしまっている。けれど、そうすることで、結局、行き詰まってしまう。そうなってしまうと、そこからどうしたらいいか分からなくなってしまう。そんなふうにしていたことがあったんじゃないかと思うんだ。」
その牧師の言葉を聞き、「自分にもそういうことがあるなぁ」と思いました。時々にその言葉を思い出します。本日の箇所には、イエス様が弟子たちに語りかけられた言葉が記されています。そこでイエス様は「僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」(13:16)と言われました。ここで言われた「僕」とは誰でしょう。「主人」とは誰でしょう何より言えるのは「弟子たち」と「イエス様」のことなのだと思います。「弟子たちはイエス様にまさることはない。そのことがちゃんと分かって、そのとおりに実行するなら、あなたたちは幸いなんだよ」言われているのです。それというのは、そのまま、私たちとイエス様との関係もそうなのだと思います。私たちはイエス様にまさることがないのです。「それはそうだ」「そんなの当たり前だ」と思うかも知れません。しかしながら、ふと思います。本当にそうだろうか…。この当たり前のことを、きちんとわきまえているだろうか…。そして、思い出すのが、先ほどの牧師の言葉です。イエス様が私たちに先立ってくださっているはずなのに、そういうことを見失って、いつの間にか、自分がイエス様より先に出てしまっている時、私たちはいつの間にか、自分がイエス様にまさってしまっているかのようになっていないだろうかと思うのです。
そんなことを考えながら、改めて、本日の箇所から、「わたし」と「イエス様」との関係について考えさせられました。いつの間にか、私たちがイエス様にまさっているようなことはないでしょうか。もし、そうなっているとするなら、どうでしょう。二つのケースが考えられるのではないかと思います。まず、私たちの中で、イエス様というお方が小さくなってしまっているというケースです。イエス様のことを過小評価していたり、イエス様というお方が脇のほうに行ってしまっているということはないでしょうか。あるいは、自分たちが大きくなってしまっていることはないでしょうか。傲慢な思いになっていたり、「自分が」「自分が」というふうに自分だけで抱えてしまっていたりするのです。
時々の自分を思い返す時、そんなふうになっていることがあるんじゃないかと思います。そんな私たちが改めて神様の恵みに目を向けていく時、見失っている色々なものを見出し、私とイエス様との本来の関係を取り戻すことができるということがあるのだと思います。
