「イエスにつながる枝として」

ヨハネによる福音書15章5-8節

「ぶどう刈り」をしたことがあるでしょうか。私が福島にいた頃、教会員の知りあいの方のぶどう園で、教会員の方々と一緒にぶどう刈りをさせていただいたことがあります。その時のことで今でも覚えていることがあります。ぶどうを収穫する際、ハサミでぶどうの実を枝から切り落としたところ、ブシュっと樹液がはじけたのです。枝からぶどうの実に流れていた養分が溢れたのでした。ぶどうの木の枝というのは、見た目には細くて、しわくちゃで、枯れた枝のように見えたりします。ですが、そんな枝の中は、こんなにもみずみずしい養分が流れているんだということを知り、本当に驚きました。
本日の箇所で、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)と言われています。この御言葉を読みながら、その時のことを思い出しました。私たちがイエス様につながっていく時、私たちは、このぶどうの枝のようにされていくのだと思います。私たちの様子というのは、周りから見れば、とても立派には思えないかも知れません。ぶどうの枝のように、細くて、しわくちゃで、枯れているかのように見える、貧しい存在に映るかも知れません。ですが、私たちの内側には、豊かなものが流れていくのです。イエス様の恵み、愛が溢れていくのです。それが、ぶどうの枝として、ぶどうの木につながるということなのだと思います。
私たちというのは、突き詰めて言うなら、どこまで行っても、「貧しいぶどうの枝」のような存在であるかも知れません。ですが、そんな私たちをイエス様は招いていてくださっています。そして、私たちに対して「私につながっていなさい。そうするなら、私もあなたにつながってあげるよ」と呼びかけておられるのです。このイエス様の招きに応えて、イエス様につながろうとしていく時、私たちの中に流れていくものがあるのです。私たち自身は相変わらず「貧しいぶどうの枝」であるかも知れませんが、そんな私たちの内に、イエス様の恵み、憐れみ、愛が流れてくる時、私たちは新しく創り変えられていくのです。私たちのうちに、喜び、感謝、溢れる愛が与えられていくのです。
私たちの周りには、色々なことがあります。その色々なことの中で、悩んだり、心痛めたりしている私たちがいます。ともすると、すぐに心がささくれだったり、余裕をもてなくなってしまったり、不寛容になってしまったりします。そんな中、本日の御言葉を心に留めていきたいと思います。私たちの歩みは、イエス様につながっていくことから始まります。私たちはこのイエス様から離れてしまうなら、まさに「枯れた枝」になってしまいます。そんな私たちであることをわきまえ知りながら、イエス様につながり続けていきたいと思います。この時代、なおさらそうしていきたいと思います。私たちは、イエス様というぶどうの木に繋がりながら、父なる神様という農夫に取り扱われながら、愛によって生かされ、愛によって育まれていくのです。

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