本日のローズンゲンの御言葉です。

「いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人」詩146:5

「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」マタ26:27-28

本日の箇所には、次のように記されています。

「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」

この御言葉は、「主の晩餐」の一節です。この聖書の箇所を読む時、コロナの時のことを思い出します。2020年に新型コロナウイルス感染症が広がっていた時、「主の晩餐をどうするのか」ということが問われました。色々なやり方が考えられましたが、パンとぶどうジュースを小分けにし、皆さんにそれを分け、家に持ち帰って食していただくことにしました。「そこまでして主の晩餐をする必要あるのか」という意見もあったかも知れませんが、私としてはこのような時こそ「主の晩餐」を行なうことができたらと思っていました。

2011年の東日本大震災の時、このようなことがありました。福島に住んでいた牧師の御連れ合いが、原発事故の後、子どもたちを連れて、福島から避難しようとしました。ですが、どこに向かえばいいか分かりません。あてもないまま、名古屋にやって来ました。真夜中、名古屋に住む牧師に電話をかけたところ、快く迎えてくれました。家に着くと、牧師は食事を準備して迎えてくださいました。その食卓の席についた時、初めて、心が落ち着きを取り戻すことができたそうです。その時に心に迫ってきたのが、ルカ24章に記されているエマオの途上の記述でした。この時、弟子たちはイエス様の十字架の出来事の最中、混乱していました。二人の弟子が失意の中、エルサレムを離れようとしていたところ、復活のイエス・キリストに出会います。ですが、彼らはそれがイエス様だと分かりませんでした。やがて、エマオの到着し、一緒に食事の席についた時、初めて、目の前におられるのが、イエス様であることを分かったのです。その牧師のお連れあいは、その記述を思い起こしながら、「イエス様はあの時と同じように、私と一緒にいてくださったんだ」と思ったそうです。「その時のことが忘れられない」とおっしゃっていました。「エマオの途上の食事」や「主の晩餐の食事」は、心揺さぶられる中、悩みや不安の中で献げられた食事でした。そのような状況の中で、イエス様は食卓に招き、御自身が共にいることを現わしてくださったのです。詩編23編には「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」(詩編23:5)とあります。「エマオの途上の食事」、「主の晩餐の食事」は、そのような食卓でした。コロナの中にあって、心揺さぶられている時にこそ、そのような食卓を大切にしたいと思いました。今も色々なことがあります。不安なこと、「これからどうなってしまうんだろう」と思ってしまうようなことがあったりします。しかし、そのような中、イエス様は私たちを変わらない主の食卓に招いてくださっていることを覚えていたいと思います。

鈴木牧人

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