本日のローズンゲンの御言葉です。
わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
詩編51:4
憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――
エフェソ2:4-5
以前、水にも「死んだ水」と「生きた水」があるということを聞いたことがあります。
「生きた水」とは、その水により、
人の生活を潤し、魚も住める水だそうです。
これに対して、「死んだ水」とは、水中の酸素が欠乏し、魚も住めない水だということでした。一度死んだ水でも、浄化槽等で酸素を送り込み、生きた水にすることができるということなどが記されていました。そんな「生きた水」「死んだ水」について考える時、思い出すことがあります。
それは、昔見た映画の「アラビアのロレンス」のワンシーンです。
映画の中で、中東の男性が手を洗う場面が出てくるのですが、その男性が、従者に器に入った水を下の容器に注がせ、その注がれている水でもって手を洗っている場面があったのです。何気ない映画のワンシーンですが、その様子を見て、父がこんなことを言っていました。
「中東の人はあんなふうに注がれた水で手を洗うんだ。何故かというと、中東の人の考えには、流れた水は清い、生きた水で、留まっている水は、汚れて、死んだ水だという考えがあるからなんだよ。」
父からそのように言われ、映画の内容以上に、その話が心に残りました。この中東の人の考えというのは、先ほどの「生きた水」「死んだ水」に通じるものがあるのではないでしょうか。
一つところに留まった水は、酸素も欠乏していくでしょうし、雑菌も溜まりやすいのだと思います。これに対して、清流などで流れている水というのは、清潔でしょうし、酸素もたくさん含んでいるのだと思うのです。まさに、流れている水は、清い、生きた水で、留まっている水が、汚れて、死んだ水というのは、本当なのではないかと思うのです。
本日の箇所には、次のように記されています。
「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、
罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――」
本日の御言葉を読みながら、「罪のために死んでいたわたしたち」という言葉が心に留まりました。そして、思い浮かべたのは、先ほどの「死んだ水」の姿でした。一つところに留まって、行き場もなく、淀んでしまっている水のように、わたしたちの心も頑なになり、自分だけの世界に閉じこもって淀んでしまっている…。そんな様子を思い浮かべたのです。
そんな中、私たちの主は「愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださるのだというメッセージを読みながら、私の中で思い浮かべたのは、「死んだ水」から「生きた水」に変えられていく有様でした。
実際、私たちは主の取り扱いによって、そのような経験をさせられることがあるのではないかと思います。心頑なになり、自分だけの世界に閉じこもっていた私たちがいる時、主はそんな私たちを取り扱い、私たちの心を解きほぐし、解放してくださるということがあるのだと思います。そんなふうに、主は溢れるばかりの愛の取り扱いでもって、「死んだ水」のようになっている私たちを「生きた水」へと回復させてくださるのです。
(鈴木牧人)