「救いの香り」

マタイによる福音書26章6-13節

 本日の箇所には、イエス様たちが重い皮膚病の人シモンの家で食事をしていた時、マグダラのマリアがイエス様に高価な香油を注いだ様子が記されています。重い皮膚病の人シモンにしても、マグダラのマリアにしても、イエス様への感謝だったり、喜びの思いから、そんなふうにイエス様をもてなしたり、高価な香油を献げたのだと思います。本日の箇所には、イエス様への感謝と喜びにあふれた人々の献げ物の様子が記されているのです。

本日の箇所を読みながら、何より思うことがあります。それは重い皮膚病の人シモンやマグダラのマリアが、本日の箇所にあるような献げ物を献げるにあたって、それぞれに色々なことがあったのだろうなということです。重い皮膚病の人シモンが、こうしてイエス様をもてなすまで、きっと色々なことがあったのではないでしょうか。かつてシモンが重い皮膚病に苦しんでいた時にはそんな余裕などなかったのだと思います。当時、そのような重いに皮膚病を患った人というのは人との交わりが禁止されていました。ですからイエス様が近づいた時に、シモンはイエス様をすぐにそれを受けいれたかどうか分かりません。もしかしたら、イエス様が近づこうとしても、それを恐れて、物陰に隠れようとしたかも知れません。またイエス様のことをすぐに信じることができたでしょうか。最初はイエス様のことを信じられなかったり、心拓けなかったりしたかも知れないと思うのです。いずれにしても、本日の箇所で、シモンがイエス様を心からもてなす…。それは最初からそうではなかったろうと思います。そして、それはマグダラのマリアもそうだったのではないでしょうか。そんなふうに、重い皮膚病の人シモンにしても、マグダラのマリアにしても、これまで色々な思いを通らされながら、取り扱われ、本日の箇所で、麗しい香りを放つような献げ物を献げている…。そんな彼らへと変えられていったのではないかと思うのです。

そして、それというのは、私たちもそうなのではないでしょうか。こんな言い方をすると、誤解されてしまうかも知れませんが、私は、本日の箇所を通して、「私たちも本日の重い皮膚病の人シモンのように、マグダラのマリアのように献げる者になりましょう!」とはあまり思いません。むしろ、思うのは、重い皮膚病の人シモンにしても、マグダラのマリアにしても、色々な思いを通らされて、この香りを放つに至った…。そのことを大切に考えたいと思うのです。そして、そのことから思うのは、私たちが「ナルドの香油を献げる者になろう!」とすることよりも、私たちが本当の意味で、イエス様に出会っていく時、私たちがイエス様に取り扱われていく時、私たちは自然と、私たちなりの「ナルドの香り」を放つ者に変えられていくということです。何より大事なことは、イエス様とそのような出会いを経験していくことなのではないでしょうか。時に涙を流しながらイエス様に恥ずかしい部分をさらけ出すようなことがあっても、私たちの心の中にある本当の思いを、嘘偽りのない思いをイエス様に明け渡しながら、イエス様と本当の意味で出会っていく…。そのことが大事なのだと思います。その時、私たちは、イエス様にあって取り扱われていくのです。(鈴木牧人)

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